いつもつい現実的には、、という言い訳とどっちつかずになりがちな自分の気持ちをスパッと切り、力強く後押ししてくれるという気がしました。
教皇のメッセージシーンはNHKテレビがリアルタイム中継で放映したので、無編集のスピーチを多くの人が聞いたと思います。
翌朝、それらが朝刊ではどう伝えられたのかを読売、朝日、毎日の3紙を買って読み比べてみました。各社の意図的な編集が入るはずなので。
1面ので見出し比較
読売:ローマ教皇 核廃絶訴え 「多国間主義の衰退」懸念
長崎・広島で演説
朝日:ローマ教皇 核廃絶訴え 長崎・広島で
「核の威嚇に頼り 平和提案できるか」「武器開発 テロ行為」
毎日:核保有「途方もないテロ」 ローマ教皇 長崎訪問
広島でも訴え
長崎のメッセージで、もっとも耳に残っている武器の開発、製造、販売等に係る事はテロ行為である というメッセージが、読売新聞だけカットされている事に驚きました。
読売新聞は記事本文の中にもテロという言葉は一切使っていません。
メッセージの具体的文章は、
読売:長崎演説の全文、広島演説の要旨
朝日:長崎、広島共に要旨
毎日:長崎、広島共に要旨 スピーチ全文と動画はデジタルプラスで
という事で、読売が全文を載せているというのは良いなと思ったのですが、その内容を読むと、又 唖然としてしまいました。
カトリック中央協議会が発表しているフランシスコ教皇のメッセージ文と読売新聞の”全文”というものを少し比較してみます。以下(カ):カトリック中央協議会の文、(よ):読売新聞の全文という文です。
(カ)
愛する兄弟姉妹の皆さん。
この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさったかたとそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。
(よ)
親愛なる兄弟姉妹のみなさん
私たち人類が互いに対してどれほどの苦痛と恐怖を与えられるものなのか、この場所ほど意識させられるところはない。
長崎の教会(浦上天主堂)で被爆した十字架とマリア像は、被爆者とその家族が味わった筆舌に尽くしがたい恐怖を今一度、思い起こさせる。
(カ)
人の心にあるもっとも深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みに対する最良のこたえではありません。それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。
(よ)
人間は、平和と安定を心の底から熱望している。核兵器や他の対象は買い兵器の保有は、この望みをかなえる回答にはならない。それどころか、この願いをいつまでも試練にさらす。
私たちの世界は、ひどい分断の中にある。それは、恐怖と相互不信に基づく偽りの安全を土台にして、平和と安定を守ろうとしているためだ。その結果、国民同士の関係が損なわれ、どんな対話も妨げられてしまっている。
(カ)
国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。
(よ)
世界の平和と安定は、恐怖や相互破壊、相手を壊滅させる威嚇といったものに基礎を置くいかなる取り組みとも相いれない。平和と安定は、団結と協力に支えられた世界的な道徳観からしか生まれない。今日および未来の全人類が相互に尊重し合い、共通の責任を果たしていける未来を築くために団結と協力が欠かせない。
(カ)
ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくともつねに上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です。
(よ)
この都市は、核爆弾による1回の攻撃が、人類と環境にどれほど破滅的な結果をもたらすか示す証人だ。
軍拡競争への反対を私たちがどんなに叫んでも十分ではない。無駄遣いされている貴重な資源は本来、人類の発展や自然環境の保護に使うはずのものだ。今日、世界には、人間らしい暮らしが送れない何百万もの子供や家族がいる。それなのに、破壊力が一段と増している武器の製造や近代化、保守や販売に巨万のカネを費やすのは、天罰に値する違反行為にほかならない。
(カ)
核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して具体性をもって応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番])。
(よ)
核兵器のない平和な世界をあらゆる場所で、何百万の男女が熱望している。この理想実現には、全員の参加が必要だ。個人個人に加え、宗教コミュニティーや市民社会、核兵器の保有国も非保有国も、軍事部門も民間部門も、国際機関もーー。私たちは核兵器の脅威に対し、一致結束して向き合わなければならない。この世界を支配する相互不信を断ち切り、信頼を築く不断の努力を、困難であっても続けなければならない。
1963年、ローマ教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」で核兵器の禁止を訴え、「真の永続的な平和は、軍事力の均衡によってではなく、相互の信頼の上にしか構築できない」と述べた。
まだこれで半分ぐらいですが、疲れるのでここで止めます。読売新聞のこの”全文”と呼んだ文章は、ポイントをいろいろと変えて表現することで意図編集をしているようですね。
広島での要旨というものも、それに相当する教皇のメッセージと少し対比してみます。
(よ)
確信を持って、改めて申し上げたい。今日、戦争のために原子力を使用することは、犯罪以外の何ものでもない。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来を台無しにする。原子力の戦争目的の使用も核兵器の保有も同様に道徳に反する。
思い出し、ともに歩み、守ることーーこの三つは、倫理的な命令だ。これらは、まさに
ここ広島において、一層強く、より普遍的な意味を持ち、平和への道を切り開く力がある。
現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れることがあってはならない。何世代にもわたって「二度と繰り返してはならない」と言い続ける。
(カ)対応する部分のスピーチ全文
確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。それは、わたしがすでに2年前に述べたとおりです。これについて、わたしたちは裁きを受けることになります。次の世代の人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、国と国の間で何の行動も起こさなかったと。戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪のスピーチで、あのだれもが知る偽りの行為を正当化しておきながら、どうして平和について話せるでしょうか。
平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳20〕参照)。
真理と正義をもって平和を築くとは、「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上87〔同49〕)のを認めることです。ですから、自分だけの利益を求めるため、他者に何かを強いることが正当化されてよいはずはありません。その逆に、差の存在を認めることは、いっそうの責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同88〔同49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。
実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ6世「国連でのスピーチ(1965年10月4日)」10)。武力の論理に屈して対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもな〔く〕、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。
思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても国々の運命に対し、今、特別な役割を負っているかたがたの良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。