ここまで来たら、いよいよ大詰めです。
家具はリサイクルショップに売れるないか? という甘い期待があるのですが、それらで買い取ってくれる可能性のあるのは、10年以内に買った高級(名の通った)家具など。
実家に残されている、数十年使った物は買取り対象に殆どなりそうもありませんでした。
但し、江戸や明治時代かの古箪笥はアンティークとしての価値の出る物もあるので、古物商に見に来てもらうのが良いかもしれません。
古箪笥は店舗のインテリアなどに使われるニーズがあるようです。
それ以外の家具は、粗大ゴミとして、コツコツ出していくのが最も安く済ます方法。
廃棄業者に来てもらうと、トラック1台でx万円とかに直ぐなってしまうので、嵩張る(空箱のような)家具の始末では割りに合わない気がしました。
できるだけ、頑張りましょう。
2018年8月14日火曜日
【実家の片づけ】10.衣類、布団など
これらも、記憶につながる事が多い物たちです。
和服等 欲しい人があれば差し上げたり、自分が使いたいと思うものは取り分けておきますが、それ以外は全て処分すると腹を決めます。
意外と新品の物も出てきたりもしますが、大抵 型が古い。
公共団体やNPOなどで衣類回収をしている所があれば、そこに送るのも良し。
あとは、燃えるゴミの日に涙を飲んで(?)出していきます。
布団や毛布、絨毯、座布団等は粗大ゴミとして出す必要があります。
数量や大きさ(縛った後の)を調べて、粗大ゴミの申請をします。
ベッド、マットレスでは扱いが違う事がありますので、該当地域の分別処理の方法を調べて対処する必要があります。
布団を丸めて縛ったりするのも意外と重労働。重いですし。
計画的に進める必要があります。
和服等 欲しい人があれば差し上げたり、自分が使いたいと思うものは取り分けておきますが、それ以外は全て処分すると腹を決めます。
意外と新品の物も出てきたりもしますが、大抵 型が古い。
公共団体やNPOなどで衣類回収をしている所があれば、そこに送るのも良し。
あとは、燃えるゴミの日に涙を飲んで(?)出していきます。
布団や毛布、絨毯、座布団等は粗大ゴミとして出す必要があります。
数量や大きさ(縛った後の)を調べて、粗大ゴミの申請をします。
ベッド、マットレスでは扱いが違う事がありますので、該当地域の分別処理の方法を調べて対処する必要があります。
布団を丸めて縛ったりするのも意外と重労働。重いですし。
計画的に進める必要があります。
2018年8月13日月曜日
【実家の片づけ】9.食器
食器も沢山残されています。
両親が新婚当時からのほぼ全ての物が台所や食堂の棚などの奥にあります。
食器を見ると、家族皆で茶碗蒸し食べたな、とか、正月には少しかしこまってお屠蘇を飲んだなとか当時のシーンが思い出されます。
写真や手紙などとは又違う、もっとリアルな記憶を呼び起こしてくれます。
味や、笑い声、親兄弟の服装や当時のテーブルやコタツの風景なども目に浮かんできました。
昭和の中旬にはフルーツポンチを家でやる事が流行っていたのでしょう。ポンチのセットがあったり、(そう言えば2-3回だけ使われていた事を思い出しました)
時代に密着した記録物です。
小皿、箸、ナイフとフォークコップなど、日常品であればあるほど子供の時の記憶が呼び起こされます。
これらの記憶のキーになる品々を俺の判断で捨てて良いのか?
又、心の中の葛藤が起こります。
でも、心を鬼にして、「ノスタルジーには浸らないぞ」と決めて進めます。
食器には、陶製、木製、金属製ガラス製のものがあります。
私の市の資源回収のしくみを読むと陶製食器や、金属製調理道具の無料回収をしていましたので、出来るだけ、そこに持ち込む様にしました。
ナイフなどは危険物として出す必要があります。
ガラス製のものは燃えないゴミとし出しました。
有名ブランドの新品食器があればリサイクルショップなどに売る事も可能かもしれません。
気を付けなければならないのは、貰い物等だと思われる木箱に入った食器類。
それらは貴重な価値ある物の可能性はあります。説明書きなどがあれば良く読んでみる事がお勧めします。
価値がありそうな場合は、木箱ごと残しておいて、骨董屋や古物商に売れる事があります。
注意が必要なのは、戦争中などにもらったであろう金杯、銀杯など。
金も銀も日常 あまり接する機会が無いので、なんだ銅やアルミの盃か、、とか思って処理しない事。
盃以外にも金銀製の食器がある可能性あります。
良く説明書を読んだり、どういう金属か明るい所でしっかり見る必要があります。
気を付けて作業を進めて下さい。
両親が新婚当時からのほぼ全ての物が台所や食堂の棚などの奥にあります。
食器を見ると、家族皆で茶碗蒸し食べたな、とか、正月には少しかしこまってお屠蘇を飲んだなとか当時のシーンが思い出されます。
写真や手紙などとは又違う、もっとリアルな記憶を呼び起こしてくれます。
味や、笑い声、親兄弟の服装や当時のテーブルやコタツの風景なども目に浮かんできました。
昭和の中旬にはフルーツポンチを家でやる事が流行っていたのでしょう。ポンチのセットがあったり、(そう言えば2-3回だけ使われていた事を思い出しました)
時代に密着した記録物です。
小皿、箸、ナイフとフォークコップなど、日常品であればあるほど子供の時の記憶が呼び起こされます。
これらの記憶のキーになる品々を俺の判断で捨てて良いのか?
又、心の中の葛藤が起こります。
でも、心を鬼にして、「ノスタルジーには浸らないぞ」と決めて進めます。
食器には、陶製、木製、金属製ガラス製のものがあります。
私の市の資源回収のしくみを読むと陶製食器や、金属製調理道具の無料回収をしていましたので、出来るだけ、そこに持ち込む様にしました。
ナイフなどは危険物として出す必要があります。
ガラス製のものは燃えないゴミとし出しました。
有名ブランドの新品食器があればリサイクルショップなどに売る事も可能かもしれません。
気を付けなければならないのは、貰い物等だと思われる木箱に入った食器類。
それらは貴重な価値ある物の可能性はあります。説明書きなどがあれば良く読んでみる事がお勧めします。
価値がありそうな場合は、木箱ごと残しておいて、骨董屋や古物商に売れる事があります。
注意が必要なのは、戦争中などにもらったであろう金杯、銀杯など。
金も銀も日常 あまり接する機会が無いので、なんだ銅やアルミの盃か、、とか思って処理しない事。
盃以外にも金銀製の食器がある可能性あります。
良く説明書を読んだり、どういう金属か明るい所でしっかり見る必要があります。
気を付けて作業を進めて下さい。
【音楽】薬師丸ひろ子さん
NHKのBSで薬師丸ひろ子さんのコンサートの番組を見ました。
懐かしい曲が沢山というのも嬉しいのですが、それ以上に嬉しいのは、歌い方が昔と殆ど変えずに歌ってくれている事。
インタビューの中で言われていましたが、その曲をもらった時に感じた、曲を作ってくれた人の思いを、そのままいつでも伝えたい。という気持ちが良く分かります。
そして、薬師丸さんの歌は、本当にいつも丁寧に歌っているとも感じます。
番組で振り返ってみると、色々な素晴らしい作曲家の人が書いている曲が多い事が分かりました。
楽曲提供者から見ても、薬師丸さんの姿勢は嬉しい事なのではないでしょうか。
伸びやかに、ゆっくりと聞きやすく丁寧に歌ってくれる各曲。
歌で人生の応援をしていきたいと考えておられるのではないかなとも感じます。
私には昭和の良質な面を思い出させてくれる貴重な歌い手さんです。
今でも、良い曲と出会えば、新しいスタンダードと言える歌を生んでいける方だと思います。
水野良樹さんあたりが、薬師丸さんの声質・歌いを生かす曲を作ってくれたら素晴らしい歌が出来るのではないか という気がします。
懐かしい曲が沢山というのも嬉しいのですが、それ以上に嬉しいのは、歌い方が昔と殆ど変えずに歌ってくれている事。
インタビューの中で言われていましたが、その曲をもらった時に感じた、曲を作ってくれた人の思いを、そのままいつでも伝えたい。という気持ちが良く分かります。
そして、薬師丸さんの歌は、本当にいつも丁寧に歌っているとも感じます。
番組で振り返ってみると、色々な素晴らしい作曲家の人が書いている曲が多い事が分かりました。
楽曲提供者から見ても、薬師丸さんの姿勢は嬉しい事なのではないでしょうか。
伸びやかに、ゆっくりと聞きやすく丁寧に歌ってくれる各曲。
歌で人生の応援をしていきたいと考えておられるのではないかなとも感じます。
私には昭和の良質な面を思い出させてくれる貴重な歌い手さんです。
今でも、良い曲と出会えば、新しいスタンダードと言える歌を生んでいける方だと思います。
水野良樹さんあたりが、薬師丸さんの声質・歌いを生かす曲を作ってくれたら素晴らしい歌が出来るのではないか という気がします。
2018年8月11日土曜日
【本】日本人はるかな旅 NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編 NHK出版
テレビで日本列島に南から黒潮に乗って人が渡って来たのでは、という検証で手作りボートを作り台湾(違ったか?)のあたりから人力で沖縄諸島に行けるか?という実験をしていました。
所が、黒潮の流れが強く、それを乗り越えるのは大変で、簡単ではないという事が分かったとの事。
それに触発されて、黒潮と日本人に関する事をもう少し知りたくて、本書を読みました。
私の知らなかった事が色々。
・7万年かあ1.4万年前までの氷河期では、高緯度
地方に氷河が発達した事で海面が100mほど下が
っており、今のマレー半島やボルネオ島、ジャワ島、
スマトラ島などを含む広い海ののエリアがスンダ
ランドと呼ばれる大きな陸地であった事。
そこに住んでいた人々が、氷河期が終わり海面
上昇=陸地減少に伴って各地に動いて行った事。
その流れによりフィリピン辺りから琉球諸島へ
同じ人種・文化が渡っていったと考えられる事。
・その人達が鹿児島に 上野原遺跡 と呼ばれる
9500年前という日本で最も大きな定住集落を
作った事。 しかし、その時代は縄文時代と呼
ばれる年代で、まだ畑作をしらないので定住は
難しいと考えられている時。その中で、一種の
生活革命である「定住」を先駆けて実現してい
た事。(その頃の鹿児島は、ちょうど温暖化の
途中ですばらしい植生のエリアになっていた
らしい)
・縄文文化と言われているが、琉球を含めて南
から来たその文化は土器の模様は縄目ではなく
貝で作った模様が付けられていた事。
・上野原遺跡は何千年も繁栄していたが、ある時
突然終わった事。
・鹿児島の南 竹島のあたりの海底には、「鬼界
カルデラ」と呼ばれる直径数十kmに及ぶ非常に
巨大な火山噴火の跡があります。
その鬼界カルデラが6300年前に大噴火を起こし
ました。その噴煙や火砕流は九州にも押し寄せ
て、それが上野原の壊滅になりました。
・縄文時代の日本列島(九州から北海道に至る
まで)には、いわゆる縄文人と呼ばれる人
が住んでいました。彼らは上野原に住んで
いた人達と同じ南からきた人達が広がって
いったものでした。
彼らは顔つきは、四角く立体的で、目鼻立ち
がくっきりしていて、口元が引き締まっており、
背は低いが、四肢の末端が長く、筋肉質で、
運動能力に優れていた。
・一方、北からきて中国・朝鮮方向から来た人
達が後に入って来る。彼らは厳寒の気候に対応
して、胴長短足の体形と皮下脂肪が多くのっぺ
りした顔立ちを身に着けていた。農耕文化も
もっていた。彼らが2300年前位に山口県あた
りから日本列島に進入し(渡来人)、瀬戸内海
から近畿地方へと拡散していき、弥生時代と
なった。
・その結果、在来縄文人の子孫集団は、日本列島
の両端の北海道と沖縄に分断されてしまった。
北海道に残った集団がアイヌの人々となり、
沖縄に残った集団が琉球人になったが、
本土人は渡来人の影響がかなり強く(2/3程か)、
アイヌは縄文人の影響が極めて強く、琉球人は
その中間(半分半分か)と推定されている。
などなど。
今まで気が付きませんでしたが、言われてみると確かに沖縄出身の女優さんは彫が深い方が多いような気がします。
思わず、自分の顔を鏡でみてしまいました。
所が、黒潮の流れが強く、それを乗り越えるのは大変で、簡単ではないという事が分かったとの事。
それに触発されて、黒潮と日本人に関する事をもう少し知りたくて、本書を読みました。
私の知らなかった事が色々。
・7万年かあ1.4万年前までの氷河期では、高緯度
地方に氷河が発達した事で海面が100mほど下が
っており、今のマレー半島やボルネオ島、ジャワ島、
スマトラ島などを含む広い海ののエリアがスンダ
ランドと呼ばれる大きな陸地であった事。
そこに住んでいた人々が、氷河期が終わり海面
上昇=陸地減少に伴って各地に動いて行った事。
その流れによりフィリピン辺りから琉球諸島へ
同じ人種・文化が渡っていったと考えられる事。
・その人達が鹿児島に 上野原遺跡 と呼ばれる
9500年前という日本で最も大きな定住集落を
作った事。 しかし、その時代は縄文時代と呼
ばれる年代で、まだ畑作をしらないので定住は
難しいと考えられている時。その中で、一種の
生活革命である「定住」を先駆けて実現してい
た事。(その頃の鹿児島は、ちょうど温暖化の
途中ですばらしい植生のエリアになっていた
らしい)
・縄文文化と言われているが、琉球を含めて南
から来たその文化は土器の模様は縄目ではなく
貝で作った模様が付けられていた事。
・上野原遺跡は何千年も繁栄していたが、ある時
突然終わった事。
・鹿児島の南 竹島のあたりの海底には、「鬼界
カルデラ」と呼ばれる直径数十kmに及ぶ非常に
巨大な火山噴火の跡があります。
その鬼界カルデラが6300年前に大噴火を起こし
ました。その噴煙や火砕流は九州にも押し寄せ
て、それが上野原の壊滅になりました。
・縄文時代の日本列島(九州から北海道に至る
まで)には、いわゆる縄文人と呼ばれる人
が住んでいました。彼らは上野原に住んで
いた人達と同じ南からきた人達が広がって
いったものでした。
彼らは顔つきは、四角く立体的で、目鼻立ち
がくっきりしていて、口元が引き締まっており、
背は低いが、四肢の末端が長く、筋肉質で、
運動能力に優れていた。
・一方、北からきて中国・朝鮮方向から来た人
達が後に入って来る。彼らは厳寒の気候に対応
して、胴長短足の体形と皮下脂肪が多くのっぺ
りした顔立ちを身に着けていた。農耕文化も
もっていた。彼らが2300年前位に山口県あた
りから日本列島に進入し(渡来人)、瀬戸内海
から近畿地方へと拡散していき、弥生時代と
なった。
・その結果、在来縄文人の子孫集団は、日本列島
の両端の北海道と沖縄に分断されてしまった。
北海道に残った集団がアイヌの人々となり、
沖縄に残った集団が琉球人になったが、
本土人は渡来人の影響がかなり強く(2/3程か)、
アイヌは縄文人の影響が極めて強く、琉球人は
その中間(半分半分か)と推定されている。
などなど。
今まで気が付きませんでしたが、言われてみると確かに沖縄出身の女優さんは彫が深い方が多いような気がします。
思わず、自分の顔を鏡でみてしまいました。
2018年8月5日日曜日
【実家の片づけ】8.コレクション
人により親がコレクターで何かのジャンルのコレクションをしていてそれが残っている事もあると思います。
私の親の場合は、一時 住んでいた事もあるネパール国について、色々な資料、民芸品、古くからの地図、写真、本、など現地でしか、しかもその時代にしか手に入らない物が、本棚1架分ありました。ネパールが王国だった頃の物も多く入っていました。
親の気持ちが入って集められた品々なので、単なるガラクタとして処理するのは忍びないという気持ちになります。
そこで、ネパールを研究対象としている先生のいそうな大学の図書館に寄贈できないか等を聞きました。
残念ながら、答えはNo.
そういう寄付本の管理は工数がかかるので嫌だという事か、その先生がご興味を持ってくれなかったという事。
最後は、通常の品物として廃棄処分をしなくてはなりませんでした。
時間が十分にあるならば、もっとニーズを探したり、ネットオークションに出してみる等の方法もあったのかもしれません。
こういうコレクションは、同様の興味を持っている人を見つけて引き継いでもらう事ができれば気持ちも楽になると思います。
私の親の場合は、一時 住んでいた事もあるネパール国について、色々な資料、民芸品、古くからの地図、写真、本、など現地でしか、しかもその時代にしか手に入らない物が、本棚1架分ありました。ネパールが王国だった頃の物も多く入っていました。
親の気持ちが入って集められた品々なので、単なるガラクタとして処理するのは忍びないという気持ちになります。
そこで、ネパールを研究対象としている先生のいそうな大学の図書館に寄贈できないか等を聞きました。
残念ながら、答えはNo.
そういう寄付本の管理は工数がかかるので嫌だという事か、その先生がご興味を持ってくれなかったという事。
最後は、通常の品物として廃棄処分をしなくてはなりませんでした。
時間が十分にあるならば、もっとニーズを探したり、ネットオークションに出してみる等の方法もあったのかもしれません。
こういうコレクションは、同様の興味を持っている人を見つけて引き継いでもらう事ができれば気持ちも楽になると思います。
【実家の片づけ】7.写真
昭和を生きてきた両親は、カメラの普及、進化とも連動して生きてきています。
2眼や白黒の戦前や戦後時代。カラーが出だした昭和中旬。コンパクトカメラの普及で、どこのお父さんも家族写真を沢山取り始めました。
家族のハレの日は、必ず撮って。家族アルバムに貼ってある。
そして、フィルム付きカメラ流行る時代では一人数台のカメラを使ったり、どこかに行った時に、現地で買って使ったり、と何でも写真を撮る時代。
DPE屋でくれるミニアルバムに何でもプリントを入れて、ミニアルバムが沢山溜まっていく。
次に、デジカメも出てきて。パソコンも覚えなくっちゃという事になり、ここでアナログ派とデジタル派に分かれたり。
デジタル派は画像をフロッピーに入れたりCDに入れたり、DVD、BDに、、
動画も8㎜フィルムでムービーを取りはじめ、テープ式のビデオ、そしてデジタルビデオとカメラが進化。
今はスマホで写真も動画も撮影する人が多いと思いますが、実家の片づけに於いては上記の進化に伴う数々の記録の蓄積と対面する事になります。
昭和を生きて来た世代は、写真好き。
非常に沢山のプリント等が残っています。
あらゆる旅行の写真、家族写真、仕事上の写真。
一応 全て目を通します。
自然や建物などだけが映っているのは捨てやすいですが、親や親せき家族などが映っている写真は捨てにくい。先祖のものもある。
そこで、どうしても残しておきたいものだけ。
自分の思い出用に取っておくが、あとは心を鬼にして燃えるゴミにします。
ネガフィルム(プリントの元となるデータ)も沢山出てきますが、これも廃棄。
連動して、額や写真立ても非常に多く出てきます。1-2個ならば残しておいても良いのですが、それ以上の物は廃棄に困ります。
ガラス板付きなどは特に燃えないゴミで出せるものと、粗大ゴミとして出さなければいけない物など分別します。
心理的な辛さという意味では、家族等が映った写真を廃棄と決める時は、かなり躊躇が生まれます。
「どうしても残したいものは10枚残す。」などと決めて選別すると、乗り越えていく事ができました。
動画の方は、音声も入っているので更に廃棄は心情的に難しく。できるだけ、これらは残す事にしました。
今の現役世代が亡くなる頃は、写真も動画もネットに保存されている、、という事になっている可能性あり、こういう苦労?はこの昭和を頑張った世代特有の物だと思います。
そういう意味では、出来るだけ残しておく方が良いのか、、とも自問自答しながら進めました。
古い写真のデジタル化などは、とても手間がかかるので、選択肢から私は外しました。
2眼や白黒の戦前や戦後時代。カラーが出だした昭和中旬。コンパクトカメラの普及で、どこのお父さんも家族写真を沢山取り始めました。
家族のハレの日は、必ず撮って。家族アルバムに貼ってある。
そして、フィルム付きカメラ流行る時代では一人数台のカメラを使ったり、どこかに行った時に、現地で買って使ったり、と何でも写真を撮る時代。
DPE屋でくれるミニアルバムに何でもプリントを入れて、ミニアルバムが沢山溜まっていく。
次に、デジカメも出てきて。パソコンも覚えなくっちゃという事になり、ここでアナログ派とデジタル派に分かれたり。
デジタル派は画像をフロッピーに入れたりCDに入れたり、DVD、BDに、、
動画も8㎜フィルムでムービーを取りはじめ、テープ式のビデオ、そしてデジタルビデオとカメラが進化。
今はスマホで写真も動画も撮影する人が多いと思いますが、実家の片づけに於いては上記の進化に伴う数々の記録の蓄積と対面する事になります。
昭和を生きて来た世代は、写真好き。
非常に沢山のプリント等が残っています。
あらゆる旅行の写真、家族写真、仕事上の写真。
一応 全て目を通します。
自然や建物などだけが映っているのは捨てやすいですが、親や親せき家族などが映っている写真は捨てにくい。先祖のものもある。
そこで、どうしても残しておきたいものだけ。
自分の思い出用に取っておくが、あとは心を鬼にして燃えるゴミにします。
ネガフィルム(プリントの元となるデータ)も沢山出てきますが、これも廃棄。
連動して、額や写真立ても非常に多く出てきます。1-2個ならば残しておいても良いのですが、それ以上の物は廃棄に困ります。
ガラス板付きなどは特に燃えないゴミで出せるものと、粗大ゴミとして出さなければいけない物など分別します。
心理的な辛さという意味では、家族等が映った写真を廃棄と決める時は、かなり躊躇が生まれます。
「どうしても残したいものは10枚残す。」などと決めて選別すると、乗り越えていく事ができました。
動画の方は、音声も入っているので更に廃棄は心情的に難しく。できるだけ、これらは残す事にしました。
今の現役世代が亡くなる頃は、写真も動画もネットに保存されている、、という事になっている可能性あり、こういう苦労?はこの昭和を頑張った世代特有の物だと思います。
そういう意味では、出来るだけ残しておく方が良いのか、、とも自問自答しながら進めました。
古い写真のデジタル化などは、とても手間がかかるので、選択肢から私は外しました。
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