2018年8月13日月曜日

【実家の片づけ】9.食器

食器も沢山残されています。

両親が新婚当時からのほぼ全ての物が台所や食堂の棚などの奥にあります。

食器を見ると、家族皆で茶碗蒸し食べたな、とか、正月には少しかしこまってお屠蘇を飲んだなとか当時のシーンが思い出されます。

写真や手紙などとは又違う、もっとリアルな記憶を呼び起こしてくれます。

味や、笑い声、親兄弟の服装や当時のテーブルやコタツの風景なども目に浮かんできました。

昭和の中旬にはフルーツポンチを家でやる事が流行っていたのでしょう。ポンチのセットがあったり、(そう言えば2-3回だけ使われていた事を思い出しました)

時代に密着した記録物です。

小皿、箸、ナイフとフォークコップなど、日常品であればあるほど子供の時の記憶が呼び起こされます。

これらの記憶のキーになる品々を俺の判断で捨てて良いのか?

又、心の中の葛藤が起こります。

でも、心を鬼にして、「ノスタルジーには浸らないぞ」と決めて進めます。

食器には、陶製、木製、金属製ガラス製のものがあります。

私の市の資源回収のしくみを読むと陶製食器や、金属製調理道具の無料回収をしていましたので、出来るだけ、そこに持ち込む様にしました。

ナイフなどは危険物として出す必要があります。

ガラス製のものは燃えないゴミとし出しました。

有名ブランドの新品食器があればリサイクルショップなどに売る事も可能かもしれません。


気を付けなければならないのは、貰い物等だと思われる木箱に入った食器類。

それらは貴重な価値ある物の可能性はあります。説明書きなどがあれば良く読んでみる事がお勧めします。

価値がありそうな場合は、木箱ごと残しておいて、骨董屋や古物商に売れる事があります。


注意が必要なのは、戦争中などにもらったであろう金杯、銀杯など。

金も銀も日常 あまり接する機会が無いので、なんだ銅やアルミの盃か、、とか思って処理しない事。

盃以外にも金銀製の食器がある可能性あります。

良く説明書を読んだり、どういう金属か明るい所でしっかり見る必要があります。

気を付けて作業を進めて下さい。

【音楽】薬師丸ひろ子さん

NHKのBSで薬師丸ひろ子さんのコンサートの番組を見ました。

懐かしい曲が沢山というのも嬉しいのですが、それ以上に嬉しいのは、歌い方が昔と殆ど変えずに歌ってくれている事。


インタビューの中で言われていましたが、その曲をもらった時に感じた、曲を作ってくれた人の思いを、そのままいつでも伝えたい。という気持ちが良く分かります。


そして、薬師丸さんの歌は、本当にいつも丁寧に歌っているとも感じます。


番組で振り返ってみると、色々な素晴らしい作曲家の人が書いている曲が多い事が分かりました。


楽曲提供者から見ても、薬師丸さんの姿勢は嬉しい事なのではないでしょうか。


伸びやかに、ゆっくりと聞きやすく丁寧に歌ってくれる各曲。


歌で人生の応援をしていきたいと考えておられるのではないかなとも感じます。


私には昭和の良質な面を思い出させてくれる貴重な歌い手さんです。


今でも、良い曲と出会えば、新しいスタンダードと言える歌を生んでいける方だと思います。


水野良樹さんあたりが、薬師丸さんの声質・歌いを生かす曲を作ってくれたら素晴らしい歌が出来るのではないか という気がします。

2018年8月11日土曜日

【本】日本人はるかな旅 NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編 NHK出版

テレビで日本列島に南から黒潮に乗って人が渡って来たのでは、という検証で手作りボートを作り台湾(違ったか?)のあたりから人力で沖縄諸島に行けるか?という実験をしていました。


所が、黒潮の流れが強く、それを乗り越えるのは大変で、簡単ではないという事が分かったとの事。


それに触発されて、黒潮と日本人に関する事をもう少し知りたくて、本書を読みました。


私の知らなかった事が色々。

・7万年かあ1.4万年前までの氷河期では、高緯度
 地方に氷河が発達した事で海面が100mほど下が
 っており、今のマレー半島やボルネオ島、ジャワ島、
 スマトラ島などを含む広い海ののエリアがスンダ
 ランドと呼ばれる大きな陸地であった事。

 そこに住んでいた人々が、氷河期が終わり海面
 上昇=陸地減少に伴って各地に動いて行った事。

 その流れによりフィリピン辺りから琉球諸島へ
 同じ人種・文化が渡っていったと考えられる事。


・その人達が鹿児島に 上野原遺跡 と呼ばれる
 9500年前という日本で最も大きな定住集落を
 作った事。 しかし、その時代は縄文時代と呼
 ばれる年代で、まだ畑作をしらないので定住は
 難しいと考えられている時。その中で、一種の
 生活革命である「定住」を先駆けて実現してい
 た事。(その頃の鹿児島は、ちょうど温暖化の
 途中ですばらしい植生のエリアになっていた
 らしい)


・縄文文化と言われているが、琉球を含めて南
 から来たその文化は土器の模様は縄目ではなく
 貝で作った模様が付けられていた事。


・上野原遺跡は何千年も繁栄していたが、ある時
 突然終わった事。


・鹿児島の南 竹島のあたりの海底には、「鬼界
 カルデラ」と呼ばれる直径数十kmに及ぶ非常に
 巨大な火山噴火の跡があります。

 その鬼界カルデラが6300年前に大噴火を起こし
 ました。その噴煙や火砕流は九州にも押し寄せ
 て、それが上野原の壊滅になりました。


・縄文時代の日本列島(九州から北海道に至る
 まで)には、いわゆる縄文人と呼ばれる人
 が住んでいました。彼らは上野原に住んで
 いた人達と同じ南からきた人達が広がって
 いったものでした。

 彼らは顔つきは、四角く立体的で、目鼻立ち
 がくっきりしていて、口元が引き締まっており、
 背は低いが、四肢の末端が長く、筋肉質で、
 運動能力に優れていた。


・一方、北からきて中国・朝鮮方向から来た人
 達が後に入って来る。彼らは厳寒の気候に対応
 して、胴長短足の体形と皮下脂肪が多くのっぺ
 りした顔立ちを身に着けていた。農耕文化も
 もっていた。彼らが2300年前位に山口県あた
 りから日本列島に進入し(渡来人)、瀬戸内海
 から近畿地方へと拡散していき、弥生時代と
 なった。

・その結果、在来縄文人の子孫集団は、日本列島
 の両端の北海道と沖縄に分断されてしまった。
 北海道に残った集団がアイヌの人々となり、
 沖縄に残った集団が琉球人になったが、
 本土人は渡来人の影響がかなり強く(2/3程か)、
 アイヌは縄文人の影響が極めて強く、琉球人は
 その中間(半分半分か)と推定されている。

などなど。


今まで気が付きませんでしたが、言われてみると確かに沖縄出身の女優さんは彫が深い方が多いような気がします。

思わず、自分の顔を鏡でみてしまいました。

2018年8月5日日曜日

【実家の片づけ】8.コレクション

人により親がコレクターで何かのジャンルのコレクションをしていてそれが残っている事もあると思います。

私の親の場合は、一時 住んでいた事もあるネパール国について、色々な資料、民芸品、古くからの地図、写真、本、など現地でしか、しかもその時代にしか手に入らない物が、本棚1架分ありました。ネパールが王国だった頃の物も多く入っていました。

親の気持ちが入って集められた品々なので、単なるガラクタとして処理するのは忍びないという気持ちになります。

そこで、ネパールを研究対象としている先生のいそうな大学の図書館に寄贈できないか等を聞きました。

残念ながら、答えはNo.
そういう寄付本の管理は工数がかかるので嫌だという事か、その先生がご興味を持ってくれなかったという事。

最後は、通常の品物として廃棄処分をしなくてはなりませんでした。

時間が十分にあるならば、もっとニーズを探したり、ネットオークションに出してみる等の方法もあったのかもしれません。

こういうコレクションは、同様の興味を持っている人を見つけて引き継いでもらう事ができれば気持ちも楽になると思います。

【実家の片づけ】7.写真

昭和を生きてきた両親は、カメラの普及、進化とも連動して生きてきています。

2眼や白黒の戦前や戦後時代。カラーが出だした昭和中旬。コンパクトカメラの普及で、どこのお父さんも家族写真を沢山取り始めました。
家族のハレの日は、必ず撮って。家族アルバムに貼ってある。

そして、フィルム付きカメラ流行る時代では一人数台のカメラを使ったり、どこかに行った時に、現地で買って使ったり、と何でも写真を撮る時代。

DPE屋でくれるミニアルバムに何でもプリントを入れて、ミニアルバムが沢山溜まっていく。

次に、デジカメも出てきて。パソコンも覚えなくっちゃという事になり、ここでアナログ派とデジタル派に分かれたり。

デジタル派は画像をフロッピーに入れたりCDに入れたり、DVD、BDに、、

動画も8㎜フィルムでムービーを取りはじめ、テープ式のビデオ、そしてデジタルビデオとカメラが進化。

今はスマホで写真も動画も撮影する人が多いと思いますが、実家の片づけに於いては上記の進化に伴う数々の記録の蓄積と対面する事になります。

昭和を生きて来た世代は、写真好き。
非常に沢山のプリント等が残っています。
あらゆる旅行の写真、家族写真、仕事上の写真。

一応 全て目を通します。
自然や建物などだけが映っているのは捨てやすいですが、親や親せき家族などが映っている写真は捨てにくい。先祖のものもある。

そこで、どうしても残しておきたいものだけ。
自分の思い出用に取っておくが、あとは心を鬼にして燃えるゴミにします。

ネガフィルム(プリントの元となるデータ)も沢山出てきますが、これも廃棄。

連動して、額や写真立ても非常に多く出てきます。1-2個ならば残しておいても良いのですが、それ以上の物は廃棄に困ります。
ガラス板付きなどは特に燃えないゴミで出せるものと、粗大ゴミとして出さなければいけない物など分別します。

心理的な辛さという意味では、家族等が映った写真を廃棄と決める時は、かなり躊躇が生まれます。

「どうしても残したいものは10枚残す。」などと決めて選別すると、乗り越えていく事ができました。

動画の方は、音声も入っているので更に廃棄は心情的に難しく。できるだけ、これらは残す事にしました。


今の現役世代が亡くなる頃は、写真も動画もネットに保存されている、、という事になっている可能性あり、こういう苦労?はこの昭和を頑張った世代特有の物だと思います。
そういう意味では、出来るだけ残しておく方が良いのか、、とも自問自答しながら進めました。

古い写真のデジタル化などは、とても手間がかかるので、選択肢から私は外しました。

2018年7月29日日曜日

【本】家庭菜園の不耕起栽培 水口文夫 能文協

家の庭で小さな家庭菜園を始めようと思いました。

今まで野菜作りや植物育成など全くやった事が無いので、何をしたら良いやら分からないので、図書館何冊か本を借りた中で、コレだ!と思ったのが本書です。

「不耕起栽培」とは、その名の通り畑を耕さないで栽培するという方法。

畑で野菜作りと言えば、耕して、肥料をしっかり、農薬もというのが普通の(科学的な?)やり方かな、、とずっと思っていました。でも、人工的な肥料や農薬は使いたく無いという気持ちも強くあります。

一方で、「奇跡のリンゴ」の木村さんの様なやり方もあるのかしら、、とも思いましたが、「奇跡」という表題が付くのだから普通の人がやってもダメなのかな とも考えていました。


この本は農業指導員の方が書かれているのですが、野山の自然に近い状態を作る事で、植物や土地の生物系の生命力や免疫力を高めて、最終的には肥料も薬もいらない栽培を作るという物。


野山の植物は耕さずに、肥料も無いのに実をつけて健康に育っていますから、、、


どうして不耕起栽培が成り立つのか?、どうしたら収穫も上げて行けるのか? どういうルールで植物を接したら良いのか? などが丁寧に説明されています。

コレだ!と感じて、それ以降もう何回も読み返している私のバイブルです。

考え方は非常にシンプル。


早速、庭に畑領域を区切って、この不耕起栽培が出来る状況を3年後に作るべく、実施始めました。

まずは、土作りから。

緑肥作物を植えました。
今は畑にエンバクがわさわさ茂ってきました。

土中に根を沢山作り、地上部の葉や茎は有機物マルチに使っていくつもり。
ミミズが自然に集まってくるような環境にまで持っていければ成功です。

時間はかかりますが、畑にかける手間を最小にでき、かつ無農薬で活力にあふれる作物が出来るというズボラな私にはピッタリの手法です。


3年後が楽しみです。

2018年7月22日日曜日

【心と身体】定年すぎてフォークリフト免許取得

仕事の都合があって、フォークリフトを運転できるように講習(学科と実技試験あり)を受けました。


61歳。
乗用車は20年近く乗っていましたが、運転が好きな訳でもなく、娘の幼稚園卒園送り迎えが無くなった年に廃車にして、この18年ちかくはハンドルを握っていない。
眼も網膜剥離を患って、左右アンバランスな視力だし、暗い所では見えにくくなる。当然 老眼で小さい文字も見えない。

注意力も落ちてきていて、日常も一度に2つの事は出来ないし、忘れてしまう。有様。


本当に合格できるのだろうか???という不安を抱きながら、講習に向かいました。


平日のコースですが、8人の受講生。

当然、私が最長老。平均 40歳ぐらいでしょうか。


大型トラックのドライバの方や、実は無講習で少しフォーク動かしていたんだ、、という人など。


学科は、教室でテキストを1日説明受けて、夜にテスト。 これは、なんとか満点。(殆どの人が満点か1問間違えぐらいでクリア)


実技は、3日間。


今年の夏は記録的な猛暑。気温36度。

実技は体育館の様な屋内コースで行う教習所(雨が降ったら嫌だなと、こういう教習所を選んだ)。

1時間毎に休憩が入るが、屋内コースから外に出ると気温36度の外を涼しいと感じ(微風があるので)てしまう殆ど「ゆでガエル」状態。ボーとしてしまいます。


初めて触るフォークリフト機は、いかにも重そうで、しかも簡易な作りの運転席。

乗用車と異なり、後輪操舵かつほぼ90度まで曲がるタイヤ。
重心支点と駆動を前輪で行う。
リフトアップダウンレバー、チルトレバーなど、初体験の事がイッパイ。

ポピュラーではあるが、危険の多い重機なので、指さし点呼や、この位置でハンドルをどれだけ切るか、確認していく手順など、チェックや覚えて行く事が多い。


これをボーっとした中でやるのは、本当に覚えられない。
覚えたつもりでも、実技中に ポッカリと忘れて頭の中真っ白になってしまう。。



2日目の最後に、最終試験コースの練習をしたが、ドライバーの運ちゃんたちは7分台ノーミスで出来る所を、私は14分かつミス多数。

最終試験は10分以内という制限もあり、減点法で採点されるとの事。 
本当に どうしよう、、、と思いながら帰りました。

都合で2日間教習所に行けない日があるので、そこで何回もイメージトレーニングを繰り返す。


最終日。午前と午後に試験コースの練習を4回。
イメージトレーニングの効果もあり、なんと7分を切って、ほぼノーミスで出来る回も出てきました。


最後に、審査員と1対1での実技試験本番。
あれだけ、練習したのに、最後の方で勘違い動作をしてしまい大焦り。ダメか~と思いましたが。 減点はされたがなんとか合格。

(後で聞いたら、受講者の98%は合格するとか、、)

合格・不合格 という事よりも、40歳台の人と比べてあまりに不甲斐なくなっている自分にガックリきた講習でした。


年を取るというのは、こういう事か、、という事を良く自覚できました。

とは言え、運転資格はとれたので、時間がかかっても安全を確認して必要な作業に使っていきたいと思います。


一方で、年に合ったやり方をすれば、まだまだ色々な事ができる可能性はあるなとも感じた1週間でした。