2019年9月27日金曜日

【本】ドイツ人はなぜ、1年に150日休んでも仕事が回るのか 熊谷徹 青春出版社

ドイツ人の考え方、風習、しくみが良くわかります。


日本でも、有給休暇を年5日が義務化されました。法制化しないと有休をとらない、とりにくい社会がまだまだ日本では続いています。


メーカーでは80年代や90年代のモーレツ時代に比べたら、国内の事業所は殆どの人がホワイトカラー的にパソコンとニラメッコして過ごすようになった現代は、リモートやフレックス、裁量も含めて仕事の仕方の自由度がかなり広がったと思いますが、スパっと休むという事がまだまだ苦手な気がします。


対して、ドイツではその年にとれる有休の完全消化が上司から強制されるとの事。


このギャップが何から来るのか、それが成り立つ仕事の仕方はどうなっているのか?
そんなに休んでも、ドイツの成長率は高く、国としての借金もゼロになり、黒字化できています。


考え方一つで、社会は変わるという事ですね。


ドイツ人の休みの取り方は2週間以上連続が当たり前。
1週間目はどうしても会社の事が頭にこびりついていて、本当にリフレッシュできるのは2週間目からという事。


皆 職場の全員が有休を取るので、誰が休んでいても仕事が止まらないように、誰でも資料を見つけられるようなファイリングや仕事の進め方が徹底されている。文房具のバインダーも、標準化が徹底されているので、どこでどの商品を買ってもそのまま使える。


部下が有休をとれていないと、上司への評価は悪くなる。上司も部下に有休取得させることに必死。


一人ひとりの労働時間が短くても国として成長できるように、国が方向を決めて成長戦略を進めている。現在は「インダストリー4.0」。物や機械をデジタルでつなぎ、少量多品種などでも柔軟に人手をかけずにできる仕組み作りなどを進めている。


ドイツ国も多額の借金があったが、今では借金解消し黒字にもなっている。


ドイツがEUの中で今 経済的成功を得ているのは、2003年からの行き過ぎた社会保障をやめ、非就業者を職につける(人材派遣形態など)施策を打った事が実を結んでいる。これにより、失業率は大きく減ったが、低賃金労働者が増えた。


ドイツは解雇もしにくい法律がある。その代わり、会社の調子が悪いときは従業員をリストラするのではなく、就業時間を減らす事で人件費を減らす。給料が減らされた人は
減らされた分の60%以上を政府が補助するという仕組みがある。


こういう様に、社会保障が手厚くなっており、ドイツは社会的市場主義経済といわれている。


米英は純粋な資本主義なので、小さな政府=社会保障が薄い→健康保険制度なども薄い→何かあった時のセーフティネットがない→訴訟して金をとるしかない→訴訟社会となり弁護士が沢山いる。 という構図になっている。


又、10歳のテストで子供の将来の進路がかなり決まってしまうというドイツの仕組みも、この有休や時短の考え方に影響を与えているとの事。


この本を読んで、どういう暮らし方をしたいのか、それを実現するにはどいうやり方が必要なのか。という考え方ひとつで社会のしくみを政治で作っていくことができる良い例のように思いました。

2019年9月22日日曜日

【本】イスラエルがすごい  熊谷徹 新潮新書

この15年ぐらい、日本のメーカーもオープンテクノロジーと言って、自前主義ではなくて、社内にない技術は積極的に社外から導入しようという話が出てきています。

企業買収という話も一時盛んでしたし、大学との連携というような話、異分野の企業とコンソーシアムの様なものを組むというのも流行りました。

シリコンバレーでのベンチャーの勃興というのが一つのきかっけだと思います。

その流れはすっかり定着してきていますが、その先端技術、面白い技術としてイスラエル発という案件もこの5年ぐらいかなり耳にしたり、実際にコンタクトして付き合ったりもしてきています。

自動車の安全システムに関連する仕事をしている人は、数年前にモービルアイという自動認識カメラ(前方の物体を車か人かなど判別できる)がその世界をあっという間に席巻したことを知っていると思います。このモービルアイがイスラエルの技術で、インテルに巨額で買収された事も。


最初にイスラエルと聞いた時には、中東の小国だけど、どうしてハイテク? という疑問を持った記憶があります。でも、軍隊での習得した軍事技術を使って、退役した人がベンチャーをやっていると聞いて成程とボンヤリ思っていました。

この本を読んで、どうしてイスラエルが中東のシリコンバレーになっているのかが良くわかりました。



イスラエル国防軍に8200部隊という電子諜報部隊があるそうで、そこの出身隊員たちがベンチャーを色々と始めているらしい。(勿論、その他の部隊卒でベンチャーをやっている企業もあるらしいが)

よって、セキュリティ関係(民間企業のセキュリティファイアウォールや、コネクテッド自動車のセキュリティ専門など)のベンチャーも多いとの事。

そして、イスラエスのベンチャーは20社に1社ぐらいは大手企業に買収されるexitができているとの事。これはなかなか高確率。

買ったり、投資したりしているのは、欧米のみならず中国からも膨大な資金が動いているらしい。

ドライビングフォースになっている8200部隊は、徴兵制(18-20歳)で若者に国防を直接担わせる。そのために16歳の時から、素質や能力、創造性、適正に関するスクリーニング検査を行い、ITに関する豊富な知識や他の人とは違った発想法など、特殊な才能を持つ若者だけが8200部隊に配属する。ここに配属されるのは、0.01%という選りすぐられた者だけ。8200部隊は米国の世界最大の電子諜報機関NSA(国家安全保障局)に引けをとらない内容を持っている。

そして、イスラエルのベンチャー大国となった理由の一つに「規制の考えにとらわれない自由な発想」「自分の頭で考え、知恵を絞れ」という考え方がある。

8200部隊に配属された若い兵士たち(男女)は、上官から極めて難しい課題を与えられる。上官は課題を与えるだけで、どのように解決したらよいかの指導は一切しない。
「自分の頭で考え、知恵を絞れ」である。赤ん坊を水の中に投げ込んで、自分で泳ぐことを体得させるような教育法。


この経験は、除隊後 ゼロから始めるベンチャー企業をスタートさせる時に大いに役に立つ。


つまり、8200部隊の強さの秘密は、常識や伝統を超えた発想ができる若者を集めているから。

「8200部隊に入れる若者は、ITの天才だけではない。軍は、若者が従来の常識にとらわれない発想ができるかどうかを、最も重視する。つまり、通常人には見えないような、現象や相関関係を見ることができる人々だ。この要件を満たさないと、8200部隊には入れない」

又、「自分の頭で考える」という事はユダヤ人の、さんざん周囲が豹変して苦しめられてきた歴史に元ずく価値観に結びついている。

「我々イスラエル人は、あらゆる権威を疑う。政治や企業の上司などのいう事を絶対に鵜呑みにせず、疑ってかかり、質問攻めにする。我々は、権威に対する畏れを持っていない」

イスラエル国防軍の兵士たちは、上官の命令が不合理だと思ったら、「その命令はおかしい」と言って別のやり方を提案する権利がある。兵士たちが命令に服従するのは、上官の命令が理にかなっていると思った時だけだ。なぜならば、上官も誤った判断をしている可能性があるからだ。「すべてのことを疑い、質問せよ」というイスラエル人の大原則がここに生きている。


もう一つ、イスラエルがベンチャー国家になれた理由は、ソ連の崩壊に伴い、ソ連で高等教育を受けた者や技術、科学等での優秀なユダヤ人がイスラエスに一気大量に1990年台に移民してきた事。

又、イスラエルは周りを敵国に囲まれた四面楚歌の状態であり、不毛な砂漠の地から国を作る必要があるという事で、すべてを自分たちで作り上げる必要があるから。

軍事技術も、生活技術も。


現在、米国(特にトランプなどは)、欧州、中国から熱い視線と投資を浴びて親密な関係を作っているが、それでも何時でも何物にも包含されずに、自分自身の独立性は維持確保する。 それがイスラエルという国との事。


日本の、長いものには巻かれろ 主義とは真逆で、非常に興味深い国だという事が良くわかりました。

2019年9月21日土曜日

【本】人類、宇宙に住む ミチオ・カク NHK出版

著者はニューヨーク市立大学の理論物理学教授で、米国でTV等を通じて最新科学を一般聴取者に情熱的に伝える人との事。

2019年4月に発刊されたばかりの本です。


予備知識もミチオ・カク博士という名前も知らずに読み始めたのですが、400ページ以上もある分厚い本を引き込まれる様に読んでいました。


アポロ計画を踏まえて、現在の地球でおこなわれつつある、宇宙技術(スペースX等民間の動きや、各国の機関の動き)の現状や、月や火星目指した各種プランについて、ロケットエンジン技術に今と今後について、などホットな話題が分かりやすく書かれています。


そこまでの内容だと、他にもいろいろな本やニュースサイトもあると思うのですが、この本の良いのはその次として、宇宙に人類が進出しようとしたら直面するだろう課題とそれに対するいろいろなアイデア・検討についての最新が詳しく書かれている事。

また、さらに他の星系に進出する具体ステップや、最後に銀河的に発展するにはどういう文明が必要か、どういう文明になっているのかを人類に限らずに考察が述べられている事です。


銀河レベルに進むには、宇宙の構造を理解する必要があり、そのためにはまだ解明されていない理論物理(統一場理論や ひも理論の可能性など)の課題などへのつながりも良くわかるように書かれています。


部分部分の単語などは、今までも耳に入ってきたものばかりかもしれませんが、それらが人類の宇宙進出に於いてどういうつながりを生むのかが考えられる絶好の一冊と思いました。


私の知らなかった事、例えば太陽系を包み込んでいるオールトの雲(小惑星などが沢山浮いている空間)が、隣の星系までの真ん中ぐらいまで広がっているとの事。となると、そこに浮かぶ小惑星を伝っていくことで4光年先の隣の星へ渡っていくことが現実解として具体的にできる可能性があるらしい事。などはとても興味をそそられました。


この本は、中高生の方々に読んでもらいたいなと思いました。

科学と人類の未来に対する夢を持てる、久々にポジティブな本です。
こういう話をTVで聞く米国の少年少女達は、ハッピーだなとも思います。

NHK出版の本なのですから、ミチオ・カク博士を呼んで科学番組を作って日本でも放送してくれれば良いのに。 

日本の科学技術力回復には、小中高生が科学への夢を持てるかにかかっていると思いますので。

2019年9月1日日曜日

【本】ドイツは過去とどう向き合ってきたか 熊谷徹 高文研 2

<教育面>
・教科書
 筆者がドイツの小学校の教科書を見てみると、ナチスがドイツを支配していた時代に関する記述が細かく、子供には残酷すぎるのではないかと思われるほど、生々しい写真や証言が載せられていることに驚いた。

又、中高での教科書でも、ナチスが権力を掌握した過程や原因、戦争の歴史を詳しく取り上げ、ドイツ人が加害者だった事実を強調している。

例えば、第1次世界大戦後の窮乏にあえぎ、ベルサイユ条約で重い賠償請求を突き付けられたドイツ国民が、選挙という合法的な手段で、ナチスを政権につけたいきさつ、そしてナチスが、人種イデオロギーに基づいて周辺諸国に与えた被害が、いかに甚大だったかがわかりやすく説明されている。

・歴史の授業は「暗記」ではなく「討論」が中心
 ドイツでは歴史的事実をどう解釈するか、そして自分の言葉で考えを表現して討論することが重視されている。

歴史の授業を通じて、若者たちにナチスの犯罪と取り組ませることは、「過去との対決」の中で最も重要な部分の一つである。こうした教育の結果、大半のドイツ市民の間には、ナチスの思想や軍国主義、武力による紛争解決を嫌悪し、平和を愛する心が深く根付いている。こうした現代史を学ぶ事は、被害を受けた周辺諸国に安心感を与える原因の一つになっている。

・国際教科書会議
 1945年から1965年までドイツが他国と開いた教科書会議の数は146回。そのうち83回が二か国間会議との事。最も多く教科書会議を行ったのはフランスとポーランドとである。現在までほの毎年教科書会議が開かれている。

2006年にドイツとスランスの歴史学者たちが、初めて共同で歴史教科書を執筆し、発行した。ドイツ語とフランス語で書かれた同じ内容の教科書が、両国の高等学校で使われる。

・加害責任の追及に積極的なマスコミ報道
 ドイツに暮らしていると、戦争が終わってから60年以上経った今でも、テレビ番組や新聞記事、本、雑誌、映画のテーマとして、ナチスの犯罪や第二次世界大戦が頻繁に取り上げられる事に気が付く。

こうした情報に触れて、さらに知識を深めたいと思った若者は、政府から情報を簡単に取り寄せることができる。ドイツ政府とマスコミは、犯罪が繰り返されることを防ぐには、ナチズムの邪悪性について、国民に積極的に情報を与えなくてはならないと考えているのだ。政府とマスコミが繰り返し、ナチスの犯罪についての注意を喚起するため、戦争中の記憶の風化の度合は日本よりも低い。

<司法面>
・アウシュビッツ裁判
 1963年12月から2年間に行われた「アウシュビッツ裁判」で、西ドイツの多くの国民が、絶滅収容所におけるドイツ人の蛮行のディテールに初めて触れ、大きな衝撃を与えた。

この裁判が、過去との対決を一種の社会運動にし、歴史を心に刻む姿勢を、市民のアイデンティティーとする上で、大きな役割を果たした。

・ナチス犯罪追及センター
 1958年に検察庁が「ナチス犯罪追及センター」を設置し、10万人以上の容疑者を捜査した。 2000年に役目を終えた。

・障害者安楽死計画
 ヒトラーが、病気や障害の治療が不可能と診断された市民を殺すよう命じている。介護費用を節約しようと考えた。関連して1987年に2人の老人に有罪判決をくだした。

被告の弁護士は、「ナチスに騙されて、犯罪に加担させられたのであり、大きな機械の中の歯車の一個にすぎません。彼は良心の呵責に悩みましたが、ヒトラーが命令したのだから、殺害は合法だと考え、義務を遂行しただけです」と述べた。これに対して、判決を下した裁判官は、「二人は狂信的なナチスではなく、もともと道徳心を持った人間でした。しかし、”どんな場合でも人を殺してはならない”という自然法を無視しました。義務だからという理由で、殺人に加担することは許されません。だから私は彼らを有罪にしたのです」と語った。

ドイツの司法界や社会は、「ナチスの時代に生きた、ドイツ市民全員に罪がある」という集団責任は否定している。裁きの基準になるのは、個人が「どんな状況でも、人を殺してはならない」という自然法に違反したかどうかである。

もちろん、当時は戦争が行われていたのだから、いわるゆ軍事作戦中の戦闘行動には、この自然法はあてはまらない。いわゆる人道に対する罪を犯したかどうか、また捕虜の射殺や虐待を禁止しているジュネーブ協定に違反する行為をしたかどうかである。

つまり、「個人の罪」を追求する。

このドイツの原則は大変は勇気を必要とする。戦後に生まれた我々は「命令に背くべきだった」と簡単に批判できるが、実際に、戦争という異常事態に直面した人々にとって、上官の命令にそむいても、自分の道徳心に従うということは、大変な勇気を必要としたに違いない。

だが戦後、西ドイツの司法が「集団の罪」を否定し、「個人の罪」という概念を使ったことは、「西ドイツは、ナチス体制と完全に決別した、新しい国である」という線引きを行う上でも大いに役立った。ドイツ人全員が悪人だったわけではないという論理を使えば、「一億総懺悔」は必要なく、再出発は比較的容易になる。

ドイツと異なり、わが国では戦前・戦中の日本を「絶対悪の体制」とみる考え方は主流ではない。このことは、ドイツと日本の「過去との対決」が、大きく異なる道を歩んできたことの原因の一つとなっている。

・時効廃止で、一生追及されるナチスの戦犯

<民間の取り組み>
・賠償基金「記憶・責任・未来」
2000年8月ドイツ政府50%、企業50%で総額5000億円の表記基金を立ち上げた。
ウクライナ、ロシア、ポーランドなどに住む165万人の強制労働者に対して、また強制収容所で人体実験の被害者ら、財産の没収などで経済的な損害を受けた人、生命保険が支払われていなかった人などに賠償金が支払われた。

1998年に米国に住む強制労働者がシーメンス、VW,ベンツなどの大手企業に対して損害賠償の集団訴訟を提起した。それ以降、米国の原告弁護士が大手企業に次々と訴状を送り、欧米のマスコミがドイツやスイスの企業がナチス時代に果たした役割について、集中的に報道し、企業にとって不利な事実が次々と明るみに出てきた。

ドイツ企業は、経済のグローバル化が進む中、訴訟の標的となることによって、特に米国での活動に支障が出ることを恐れ、政府に協力して、賠償基金に出資することを決めた。 ドイツのメーカーの70%、保険会社、銀行の90%、小売企業とサービス企業の60%が出資している。

・元被害者との交流・支援を行うNGO「償いの証」
 ドイツの若者に元被害者の生の話を聞かせる場を提供するなど。

<過去との対決。今後の課題>
・極右勢力の伸長
 旧東ドイツでは、「過去との対決」が不十分だった。又、手に職を持った人などはみな西ドイツに移ってしまい、旧東ドイツ地域では失業率も高い。そういうところでナオナチなど極右勢力が伸長してきている。


抜粋は以上です。

ドイツは「ナチスがドイツの名のもとでひどいことをした」。ナチスの罪は徹底的に追及するとともに、二度と繰り返さないように心に刻む。悪いのはナチスとそれに従った個人であり、ドイツ市民全体に罪はない。というスタンス進められているという事をこの本で初めて知りました。ナチスに対する反省という形で、戦争行為を包含させた。 

日本の現在の考え方との違いに驚くと共に、考えさせられます。

【本】ドイツは過去とどう向き合ってきたか 熊谷徹 高文研 1

”とてつもない「負の歴史」を背負ったドイツは、いかにして被害者や近隣諸国の信頼を取り戻そうとしたきのか。在独17年のジャーナリストが、政治・教育・司法・民間における取組の現場を訪ね、ドイツ人の「過去との対決」について報告する。”という副題がついた本です。2007年4月発売のもの。1989年~1990年のベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統合から10年以上たった時点でのドイツの状況という事になります。

この本を読んでみて、単なる敗戦国という事に加えて、戦闘行為とは別なホロコーストという事の2つの負の歴史にどう対応して、現在EUという欧州連合の重鎮となってきているのかが良く理解できました。

イデオロギー的な色を持った本ではなく、一つ一つ現場を訪ねて作られた 久しぶりジャーナリストのすごさも感じる事ができました。

おかれている状況や背負っている物はちがいますが、過去との向き合い方におけるドイツと日本は大きく異なっているだろうと感じます。

逆に、日本の過去への向かい方も良く知っていない自分に気が付き、対比できる様に次は日本についても調べていく必要がありそうです。

簡単な要約等をすべき本ではないですが、自分がポイントと思った点を記します。

<政治面>
・ベルリン・ホロコースト犠牲者追悼碑
戦後60年にあたる2005年にドイツ政府が40億円強をかけて「ナチスドイツの犯罪の記憶を世代から世代へ伝えていくため」に完成させた。1万9000平米の敷地に、まるで黒い棺のように見える大きな石の立方体2700個が覆いつくしている。高さが微妙に違うので、まるで石棺の列が波打っているような印象を与える。人々は黙りこくって、石棺の森を歩き回っている。

 場所は、日本でいえば銀座4丁目か有楽町に相当する首都で最も目立つ場所に自国の恥部に関するモニュメントを建設した。ここはナチスの権力中枢だった地域で、ドイツ国民がナチスという犯罪者の集団を、選挙によって合法的に権力の座につけたために、欧州全体に引き起こした惨禍の根源を、何よりも象徴する場所とのこと。

資料館には、12歳で殺されたユダヤ人少女の、父親に宛てた手紙が展示されている。

「死ぬ前にお父さんに別れを告げるためにこの手紙を書きます。私はもっと生きたいですが、もうだめです。私たち子どもは、生きたまま溝に投げ込まれて殺されるので、とてもこわい。お父さん、さようなら」

このモニュメントを建設したことで、ドイツ政府の歴史認識と過去と対決する姿勢がはっきり示されている。黒い石板の列は「ナチスの犯罪を忘れず、若い世代に語り継いでいく」というドイツ人の決意表明。


・賠償の出発点・ルクセンブルグ合意
1939年時点でドイツ、ソ連、ポーランドなど20か国に830万人のユダヤ人が住んでいたが、そのうち約600万人が殺害されている。この600万という数字は加害側のドイツと被害側のユダヤ人との間で一種のコンセンサスが出来上がっている。
しかも、アウシュビッツなどで、工場のような殺人施設を作って、流れ作業で市民を大量に虐殺するちう悪質な手法は「ポロコーストに比べられる犯罪は、ナチスの前にも後にもない」という点でドイツ側とユダヤ側の間の理解も一致している。

しかし、1949年西ドイツ建国直後のドイツ首相演説ではユダヤ人への賠償は触れられなかった。批判を浴びて2年後にユダヤ人に対する謝罪の姿勢を示したが、”ナチスの時代でも、宗教的な理由や良心の呵責、また恥の気持ちから、ユダヤ人を助けたドイツ人はいた”という事も言い、ドイツ人の責任を軽減しようとしたいた。

ドイツの「過去との対決」は、敗戦直後から現在の水準に達していたのではなく、60年の長い歳月をかけて深化してきたのである。

1952年ドイツとイスラエルは「ルクセンブルグ合意書」に調印。西ドイツは12年にわたり、ホロコースト生存者50万人が住んでたイスラエルに30億マルク払った。さらに、イスラエル国外に住む被害者を代表する「ユダヤ人賠償請求会議」に4億5000マルクを払った。当時の価値では莫大な金額だった。

イスラエルの右派は血塗られた金を受け取るなと批判し、西ドイツでの世論調査では賠償金支払いを前向きに評価したのは11%だけで、68%は額が多すぎると批判的だった。
でも、アラブ諸国との戦争で疲弊していた当時のイスラエル政府にとってはドイツからの経済援助は貴重だった。

これとは別に、1961年からイスラエルに対して毎年秘密裡に資金供与を行ったほか、1962年からは軍事物資の提供も行い始めた。1965年に両国の外交関係が樹立した背景には、ドイツ側の賠償努力があった。

・ドイツの払った賠償金 だんだん賠償対象を拡大してきている。

1956年に「ナチスに迫害された被害者の賠償に関する連邦法」(=連邦賠償法)を制定した。この法律の特徴は被害者の対象を広くしている事。例えば、ナチスによって創作活動を妨害された芸術家や、ユダヤ人と親しかったために博大された人々にまで請求権を認めている。

2002年末までに賠償請求438万件、430億ユーロが支払われた。さらに、ドイツ連邦議会は1996年に、ドイツ系ユダヤ人で、中東欧地域からアメリカやイスラエルに移住していた3万5000人のホロコースト生存者にも年金を支払う事を決めた。

以上のような包括的な賠償とは別に、西ドイツ政府は1959年から今日まで、欧州15カ国、アメリカとの間に2国間協定を結び、連邦賠償法の対象とならなかった被害者に対しても賠償を行ってきた。

冷戦が終わった1990年代には、ドイツ政府が主導する形でドイツ企業とともに基金を設立して、戦争中にドイツ企業のために強制労働をさせられた被害者に対して、賠償金の支払いを始めた。

2003年11月時点で連邦財務省は「ナチスの犯罪に関する賠償の支払いは、被害者が生きている限り続く」としている。

ドイツ政府は、金による償いが不可能であることは認めながらも、迫害のために健康を損なったり、トラウマ(精神的な傷)に苦しんだりしている人に対して、経済的な支援を通じて謝罪し、生活の負担を少しでも軽くしようとしている。したがって、ドイツ政府も金銭による賠償についてはあまり対外的に強調しない。

・1970年ブラント西ドイツ首相は、ポーランドのワルシャワ・ゲットー追悼碑の前でひざまずいた

 当時のポーランド国民の600万人が殺され、ユダヤ人は85%の人が殺された。
一方、敗戦時にヤルタ会談、ポツダム会談にて米英ソの連合国はポーランドの西国境をドイツよりに動かす(オーデル・ナイセ川まで)事を決定し、シレジア地方はドイツ帝国からポーランド領となった。この結果多数のドイツ人が追放されて逃避行した。

 この為、戦後 両国民間では憎しみの感情が強かった。そんな中、ブラント首相は追悼碑を訪れた。そこは、ナチスに武装蜂起して鎮圧破壊された市民を追悼するために作られた。西ドイツ首相がユダヤ人を追悼する碑の前で膝を折った映像は全世界をかけめぐり、謝罪の気持ちを全身で表現する「新しいドイツ人」の姿を、被害者に対して印象づけた。

後日ブラント氏はこう言った、<私は、ドイツ人が何百万人ものユダヤ人、ポーランド人を殺した惨劇に直接は加わらなかった。しかし、惨劇を引き起こしたドイツ人のために、自分も責任の一端を負うべきだ。この気持ちをひざまづく事で表現した>

「過去」と対決する必要性は2つある。一つはなぜこのような事が起きたのか、将来繰り返すのを防ぐにはどうすればよいのかを若者たちに伝える事。もう一つは周辺諸国に今後のドイツの政策が国益だけでなく、道徳をも重視することをはっきり示すため。

自国の歴史に批判的に取り組めば取り組むほど、周辺諸国との間に深い信頼関係を築くことができると思います。例えば、現在のフランスとドイツの間のように。

同時に過去の重荷を必要以上に若い世代に背負わせることには反対です。ドイツは、悪人に政治を任せた場合に、悲惨な事態が起きる事を心に刻む作業については、かなり成果をあげていると思います。周辺国の人々には、「我々の過去を批判的にしか捉えないという態度は、いつかはやめてください」と言います。

若者たちには、父や祖父がしたことについて責任はありません。しかし、彼らは同時に、自国の歴史の流れから外に出る事はできないということも知るべきです。そして若者は、ドイツの歴史の美しい部分だけでなく、暗い部分についても勉強しなくてはならないのです。 それは、他の国の人々が、我々ドイツ人を厳しく見る理由を知るためです。そして、ドイツ人は過去の問題から目をそむけるのではなく、たとえ不快で困難なものであっても、歴史を自分自身につきつけていかなければならないのです。


・歴史リスク
 戦争中に被害を与えた国から、歴史認識について批判されて、外交関係、経済関係に悪影響が及び、国益が損なわれる事がある。これを著者は「歴史リスク」と名付けた。

ドイツの行ってきている歴史と対峙する事は、この歴史リスクを減らす努力を行ってきたという事でもある。

現在のドイツは、イスラエル、アラブの両方から信頼されている。

又、過去との対決により信頼関係が築かれたので、ドイツからの国外派兵が周辺諸国との間に摩擦を起こさない。
さらにドイツは一人歩きを避け、NATOや国連など国際機関が定めた枠済みの中で、他国とともに行動していることも重要である。彼らは、国外派兵が憲法に違反していないかどうか、徹底的に議論する。他国から軍事貢献を求められても、直ちに同意する事はせず国内法と照らして検討する。最終的には連邦憲法裁判所の判断を仰ぐ。こういう真面目な態度が、かつて被害を受けた国々にとっては安心感の源となっている。

日本が本格的憲法論議を行わずになし崩しで派兵した事などは、ドイツ人は「憲法を形骸化するものだ」として激しく反発するだろう。

2019年8月24日土曜日

【本】現代ドイツの社会・文化を知るための48章 田村光彰、村上和光、岩淵正明  明石書店

この本は2003年4月発刊の本です。少し前の本ではありますが、ドイツが戦争加害に対してどう取り組んできたのかを知る一つの参考になると思い読んでみました。

ポイントになると思う幾つかの章を抜粋しますが、これを書かれた後の16年間でどういう風になって行ったのかは、ネットで今の姿を調べてみるのが良さそうです。

19章 強制労働とドイツ企業

 1939年9月、ドイツはポーランドに侵略を開始した。ヒトラーはこの約2年前に、陸海空3軍の首脳を前にドイツの「生存権」構想を発表した。食料と土地の確保、そして領土の獲得には暴力の道しかない、と。さらに1941年6月対ソ戦争を開始する。目的は「第1に征服、第2に支配、第3に搾取」(ヒトラー)である。
男子が兵隊にとられたため、特に1942年以降は、労働力不足に陥る。これを補ったのが、①戦闘により捕まえた戦時捕虜、②占領した各国から連行してきた民間人、③強制収容所の収容者たち、である。この人たちが強制労働をさせられた現場は、私企業、ナチス親衛隊所有企業、自治体、教会、農家、一般家庭など、社会の全分野に渡っており、1944年夏の段階で780万人、終戦までで述べ1000万人が働かされた。

 強制労働の目的は、男労働力の補充、企業の軍需生産維持、工場等の地下への移転や地下新工場の建設、企業からみると経費の節約、若さと労働生産性の向上、戦後に備えての資本蓄積。
強制労働者たちは、こうした目的で酷使され、自分たちの味方である連合軍から空爆される危険にさらされながら、ネチスや収容所監視員の残虐な扱いに苦悩し、さらには恒常的な寒さと飢えに襲われていた。ダイムラーベンツやフォルクスワーゲンなどで働かされていた。
保険業界もナチスと絡み、こうして強制労働の現場は「秩序正しく清潔」に運営された。業界は、守るべきは人の生命と安全ではなく、強制労働とその先に待ち構えているガス室での殺戮体制、すなわり生死の境目の手前で行われる強制労働と向こう側へ抹殺する制度を「安全に保障」した。
企業だけでなく、一般家庭、自治体、教会、小規模農業でも強制労働者の労働力に依存した。多くの場合、賃金は支払われていない。

20章 強制労働の補償

 歴史の真相の解明に向けた努力がとりわけ1990年代以来世界的レベルで続いている。国連はルワンダ、ユーゴスラビアでの大量虐殺をめぐり、臨時の戦犯法廷を開き、真相の解明と加害者の処罰を目指している。南アの「真実和解委員会」には、アパルトヘイト政策のもとで行われた人権侵害や政治的弾圧の解明に、加害者と被害者双方が参加した。2000年8月国連人権促進保護小委員会は、「従軍慰安婦」問題で、日本政府が損害賠償などの法的責任を果たしていない。とする報告書を全会一致で歓迎する決議をした。ドイツは、戦後補償問題では日本よりも確かに進んだ側面を持っている。ただし、ドイツ統一前の西ドイツは、前章で取り上げた強制労働の問題では、補償の対象者を主として西側のみに限っていた。その原因は、第1に東西の冷戦構造である。西側陣営に属する西ドイツは、量的にも質的にも最も被害が深刻で、大きかった東側の被害者を放置した。

 第2は、強制労働の実態と歴史の真相の解明が進んでいなかった点が挙げられる。ドイツ企業は、強制労働者はナチスから強いられて雇用した、と主張していた。例えば、「政府により、不足する労働力を強制労働により補うよう強いられた」(シーメンス社)。外国人は確かに強制労働させられたが、企業もそれを強制させられた。従って強制労働者も企業も共に被害者なのだという。今日、こうした「企業も強制させられた」とする説を支持する証拠は全く存在しない。逆に、企業はナチス詣ですることで強制労働者の投入を積極的に要請していた真相が次々と明るみに出て来た。真相の解明を可能にした契機は以下の3点である。①ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一されるにつれて、資料館の公開が進んだ。②市民、労組、強制労働の生存者達、学生運動経験者、教会、緑の党、社民党、民主社会主義党などの粘り強い運動は、子会社やその関連産業に資料の開示を約束させ、親会社はナチス時代の過去を隠せなくなってきた。又、この運動は、企業に自らの企業史を書かせた。企業は自分の「暗い過去」と向き合わざるを得なくなった。③アメリカで起こされたドイツ企業に対する集団訴訟。1997年、在米200人の元被害者は、アリアンツ社以下7保険会社を相手取りニューヨーク地裁に訴え、補償請求の声を挙げた。イメージダウンと市場喪失を恐れるドイツ企業は、「被害者」を装う事はできなくなった。

 自らの過去に目を向けざるを得なくなってきた企業から明るみに出て来た事実は多い。中でも、強制労働者の取り扱いは、各企業の自由裁量に任されていたことが分かってきた。労働者を飢餓と寒さのなかで、生死の境目で酷使し、ガス室に送った責任はナチスだけにあるのではなかった。少数の例外を除いて、多くの工場では企業が、食料、労働環境の改善に関心をまったく払わなかった。ナチスの人種理論は、特に東欧スラブ民族を最劣等民族と位置付ける。体制批判者への弾圧、殺戮、ユダヤ人へのポグロム(ホロコースト)が日常化しているなかで、企業幹部や工場責任者に、とりわけ東欧出身の強制労働者の人権に配慮する感覚が皆無だった。こうして放置されてきた東欧出身の強制労働者への補償問題が、真相の解明という世界史的な潮流のなかで浮上していきた。しかし、キリスト教民主同盟・社会同盟と自由民主党との連立からなる中道右派のコール政権は、補償問題に聴く耳をもたなかった。1998年に成立した社民党と90年連合・緑の党の左派新連立政権の努力で、東側の強制労働者を対象にした補償基金『記憶・責任・未来』が設立され、6300の企業と政府がそれぞれ50億マルクずつ拠出した。すでに補償給付が開始され、2002年7月段階で86万7千人が第1回目の補償金を得た。ポーランド人約38万人、ウクライナ人約19万人となっている。被害者の主張は、①未払い賃金の支払い、②被害実感と苦悩の認知、③謝罪と補償、である。

 基金の特徴は以下の点にある。①基金は苦しみの緩和のための、「ささやかな寄与」であり、謝罪や補償になっていない。虐待の法的責任も認めていない点で、極めて問題ンが多い。②ドイツの全企業約20万社が拠出を呼びかけられた。その理由は、強制労働がドイツの全社会を潤し、それにより戦後のドイツ社会が支えられている、という認識に基づくからである。③企業側の最大の恐れは、米国などでの市場喪失、企業の提携や買収が出来なくなることであった。そのため、基金は、幣国で提訴されていたドイツ企業を相手取った集団訴訟をすべて却下し、再提訴も不可能にする条項を含んでいた。こうして今後、新たな資料が出てきて、真相の解明がさらに進んだとしても、裁判の道は一切閉ざされた。④基金には、その後自主的に、自治体、日刊紙「TAZ」、作家ギュンター・グラスらが拠出し、参加者は当初の政府、企業を超えて広がっている。


21章 戦後賠償とギリシャでの残虐行為

 1997年10月、ギリシャの地方裁判所はドイツ政府に対し5400万マルクの補償金をギリシャの遺族に支払うよう命じた。ドイツ政府は、外国の裁判所から始めて補償金支払いを求める判決を受けた。

 ドイツ政府は、なぜ補償の支払いを要求されたのか。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはギリシャを占領した。ドイツ軍により処刑されたり、強制収容所送りとなったギリシャ市民は約13万人、うち6万5000人はユダヤ人であった。例えばテッサロニキではユダヤ人社会は全滅し、欧州でも最重要のシナゴーグ(ユダヤ教会)の一つが破壊された。64の地域で市民に対する大量殺戮がなされ、5万6000人が射殺され、占領政策により数十万人が飢餓状態に陥り、壊された市町村数は1000にのぼった。社会インフラの半分が壊滅した。こうした行為には、ナチス親衛隊よりも、正規軍であるドイツ国防軍が積極的に関わった。1947年、パリの戦勝国会議で、ギリシャ政府は賠償額を70億ドル以上と算定している。

 大量殺戮と都市の破壊以外に、強制貸付の問題がある。ドイツ軍は、占領中、ギリシャの銀行に35億ドル貸し出すよう命じた。ドイツ占領軍は当時文章にて返却を約束したが、今日に至っても約束は果たされていない。1966年、ギリシャ政府は、これを「強制国債」問題として取り上げ、ドイツ政府は未決着であることを告げている。以来、ギリシャ政府は戦後史のなかで繰り返し賠償を請求しているが、ドイツ政府は応じていない。

 1953年3月当時の西ドイツ政府は、西側諸国で、第二次世界大戦中ドイツと交戦状態にあった国々と「ロンドン債務協定」を締結した。その核心は、ドイツの賠償支払いは、まず東西ドイツが統一され、その後に各国と平和条約を結ぶまで延期されるという内容であった。東西ドイツの統一とは、この時代は訪れることのない夢物語であった。夢物語を利用し、各国に賠償の<受取りの延期>を「、しかし実態は、<受取りの断念>をさせた。交渉委員はヘルマン・アブスであった。1950年代以降の「ドイツ経済の奇跡」は、この支払の先延ばしにも一因がある。

 ナチス時代、彼を頭取とするドレスデン銀行は、親衛隊へ資金を提供し、また収容所が大量殺戮の国際裁判で、米側検察官から「真の戦争犯罪者」の一人に名を挙げられている。アブスはこれを反省しないばかりか、西側被害国に賠償の受取りを断念させることに成功した。被害者たちは、ドイツ国家が被害国に賠償(国家賠償)をしないならば、せめて被害者個人にドイツ政府が補償(個人補償)をするよう運動を起こした。この結果、ギリシャには1960年3月総額で1億1500万マルクが支払われ、13万人が、一人当たりわずか900マルク弱の個人補償を受けた。ところが、1990年、アブスが口実とした夢物語は突如実現した。両ドイツが統一され、統一された両ドイツは、米英仏ソと平和条約を結んだ(両ドイツと4か国で締結されたので「2+4条約」という)。アブスの約束通り、賠償の支払いが始まるはずであった。しかし、コール政権はこれを拒否し続けた。

 そこでギリシャの遺族や被害者は、ドイツ政府に対し強制国債の払戻しやホロコースト(大量虐殺)への個人補償を求めて、ギリシャ全土で訴訟を開始した。これに対し、ドイツ政府は、ギリシャの裁判所には、国境を越えてドイツ政府の問題を裁く権限はないと主張してきた。しかし、冒頭で触れたようにレヴァディア地裁は、補償金の支払いを命じた。ドイツ政府は、これを不服としてギリシャ最高裁に上告をした。しかし、2000年5月、最高裁は地裁判決を支持、理由の一つは、行われた殺戮は、軍隊の戦闘中になされた兵士同士の殺戮ではなく、ドイツ軍による市民に対する大量殺戮であり、これは国境を越えて裁くことができる、とするものであった。ここにみられるのは、今後国際社会は、国の内外に関係なく、また戦時中であろうと戦前であろうと一般の市民に対する組織的、大規模な殺戮は<人道に対する罪>として、国境を越えて、許さないとする姿勢である。

 ドイツ政府が賠償支払いを拒否する姿勢は続いている。そこで遺族や被害者たち200人は、ギリシャに存在するドイツの外国資産を差し押さえ、その資産を競売にかけ、補償金や慰謝料を捻出しようとした。差押えの対象となった3施設のうち一つが、アテネのドイツ文化センター(ゲーテ・インスティテュート)である。差押えられていた施設の競売は2001年9月に予定されていた。しかし、アテネ上級裁判所は競売の数日前に「ギリシャ司法省の同意が必要」という判断を下した。司法省は、同意をしなかったために、競売は今のところなされていない。


24章 ドイツの平和教育

学習指導要領の姿勢
 日本と同様に特別な過去を歩んだドイツでは、歴史との対話が平和を考えるために欠かせない要素となっている。このため学校での歴史教育は平和教育の一環として位置づけられ、近現代史学習、とりわけ第3帝国時代(ナチス時代)の学習にはかなり集中的な取り組みがなされている。
 
 学習指導要領の面から見てみると、地方自治主義の徹底するドイツでは、学習指導要領も州ごとに編成されるが、それぞれ若干の違いがみられるにしろ、歴史に対する基本的な姿勢は共通する。例えばハンブルグ市の学習指導要領では、歴史を学ぶ目的として民主主義的思考の獲得を挙げている。その際以下の2点に重点が置かれている。第1に過去のドイツ人の価値基準や行動を分析することで、民主主義の成立条件を探ることである。とりわけ「戦争」を学ぶことの意味は、「残虐で非人道的な体制とともに歩んだ歴史的体験から、民主的な人権国家が不可欠であるとの認識を獲得し、この立場からドイツ連邦共和国における民主主義の維持発展に取組む」ためとされている。加害者としての立場を明確にしつつ、戦争の歴史から平和について学び取ろうという姿勢がうかがえる。第二に歴史学習の方法として、過去と現在との連続性に着目し、歴史を追体験できるような授業の進め方を求めている。このため歴史への大局的なアプローチに限らず、日常史の採用が奨励されている。また強制収容所跡といった歴史の現場を訪ね、現実と出会う体験も重視されている。

教育現場からーハンブルグの事例ー
 ドイツの学校教育現場の歴史教育は、日本のように「日本史」と「世界史」にわけて何度も繰り返す形の学習ではなく、ドイツ史のみ、あるいは広く見てもヨーロッパ史にとどめた内容の通史を最低学年から最高学年までかけて1度だけ学ぶ。そのぶん一つひとつの事項に対する取り組みは豊富で密度の濃いものとなる。第3帝国時代にさしかかるのは、日本の中学3年生にあたる9年生の学年末頃であるが、実際には10年生の初めに持ち越してじっくりと時間と労力をかけて取り組むケースが多い。

 ハンブルグ市のあるギムナジウムで実際に行われた歴史授業を紹介すると、筆者が見た10年生のクラスはすでに4年間にわたり同一教師が担任するため、前学年から少しずつ段階を踏んで第3帝国学習のための下準備が行われてきた。歴史学習の枠外でも、例えば国語の授業で戦争を題材として教材を取り上げ、戦争について話し合った。また合宿などで、戦争に限らずあらゆる形態の暴力について話し合う機会を設け、戦争の根本である「暴力」の概念の理解に努めてきた。さらにそこまでで得た知識をもとに、生徒各自が戦争に関するテーマで小論文を仕上げた。以上の準備段階をへて、実際の歴史授業で第3帝国が取り上げられた。授業は講義形式ではなく、あらかじめ与えられたテーマについて下準備してきた生徒が議論する形で進められた。授業での教師の役割は、生徒から出された意見に関連を与え、議論にある程度の筋道をつけることに終始していた。特徴的だったのは、教師から生徒に対して出される質問のほとんどが、「なぜ」「どのように」を問うものであったことだ。生徒は、知識の蓄積だけでなく、自分で分析し、自分のことばで説明できるようにならなくてはならなかった。指導要領にある第2の重点項目である過去と現在の連続性に関しては、当時の状況に自分をおいて考えることが要求された。このことによって、生徒はプロパガンダに踊らされずに真実を見つめることの難しさと、自分のなかにも「長いものに巻かれる」要素があることを認識させられるのである。また、このギムナジウムではハンブルグ郊外にあるノイエンガンメ強制収容所跡のほか、ハンブルグ歴史博物館を見学し、加害、被害、抵抗運動など、あらゆる角度から展示に関するレポートをまとめるといった試みも行っている。

 このような様々な取り組みを通じて、歴史の学習という枠を超えた平和教育としての歴史教育は、学校現場でかなりの密度とレベルの高さをもって達成されている。しかし、紹介例は生徒の大半が大学入学資格を取得する高等教育学校の一例にすぎない。密度の濃い平和教育はすべての学校にで行われるわけではなく、高学歴層と低学歴層の間には明らかな歴史観のギャップがあり、学歴が低い層ほどホロコーストを相対化したり、ナチズムを肯定しようとしたりする傾向が指摘されている。今後の平和教育の課題は、このギャップをいかにして埋めていくかという点にかかっている。

以上 抜粋ですが、戦後のドイツの状況がよく分かりました。
その後、これらがどう転換していっているのかは、別な本で確認していきたいと思います。

2020年にならんとしている今の日本と韓国でも、似たような話がまだ続いている事に驚くとともに、歴史的な事実としっかり向き合うという姿勢(教育含む)は大事ということを改めて思いました。

2019年8月22日木曜日

【本】海外で研究者になる  増田直紀 中公新書

日本の若手研究者は、期間雇用の職ばかりで例えば5年ごとに色々な大学や研究所を渡り歩いて職を探さないといけない。

という話を沢山聞きます。

又、日本の大学で博士課程に進むのは留学生の方が多くなっていて、日本人は研究者離れが進んでいるという話も。


そんな流れの中で、日本を飛び出して海外で研究者としての職を得ている方々もいます。

この本の著者はその一人、東大准教授(終身雇用権有)の地位を捨てて、英国の大学に移た研究者で。今週は更にニューヨーク大学に移った方。


海外で研究者PI(Principal Investigator.自分のしたい研究を行う権限を持ち、一方で論文精算や研究費獲得などに責任を持つ 研究室のボス職。日本で言うと 大学の教授や准教授、研究機関の主任研究者など)になるには、どういう事をしたのか。又、現在 各国で活躍している17人の日本人研究者へのインタビューも含めて、海外への転出はどういう状況なのかを最新情報で説明してくれます。

2019年6月末に発売になったホヤホヤの本です。


海外で職を得るためのノウハウやポイントという話も多いのですが、各国の学生がどういう動きをしているのか、各国の学術研究に対する考え方や取り組み方がどう違うのかが詳しく、実感を持って語られています。



印象としては、アメリカ系(日本も)の大学は、競争的外部資金をどれだけ獲得できるか、重要な論文をどれだけ出せるか。というのを評価軸にしている様子。

一方、中国などは、科学技術振興の為にお金やチャンスはフンダンに与えられる様子。
スイスなどは、少し落ち着いた感じで研究できる環境の様子。

研究者と言っても、大学の職員の場合は教育者という顔も勿論持つ必要があるので、2つの顔についてのバランス配分なども国や大学によってかなり違うみたい。


17人の方は、状況は様々なようですが、総じて海外に飛び出した事でかなり視野や自由度を広げられたらしい。

彼らからのメッセージは、学生のうちからでも海外での研究経験や人脈を作っておくのが兎に角 良いとの事。
数年計画で行動をおこせば、成功できる可能性が上がる。中国の学生は既に始めているらしい。


現在の大学生におすすめの一冊です。得る所が多いと思います。