2019年8月24日土曜日

【本】現代ドイツの社会・文化を知るための48章 田村光彰、村上和光、岩淵正明  明石書店

この本は2003年4月発刊の本です。少し前の本ではありますが、ドイツが戦争加害に対してどう取り組んできたのかを知る一つの参考になると思い読んでみました。

ポイントになると思う幾つかの章を抜粋しますが、これを書かれた後の16年間でどういう風になって行ったのかは、ネットで今の姿を調べてみるのが良さそうです。

19章 強制労働とドイツ企業

 1939年9月、ドイツはポーランドに侵略を開始した。ヒトラーはこの約2年前に、陸海空3軍の首脳を前にドイツの「生存権」構想を発表した。食料と土地の確保、そして領土の獲得には暴力の道しかない、と。さらに1941年6月対ソ戦争を開始する。目的は「第1に征服、第2に支配、第3に搾取」(ヒトラー)である。
男子が兵隊にとられたため、特に1942年以降は、労働力不足に陥る。これを補ったのが、①戦闘により捕まえた戦時捕虜、②占領した各国から連行してきた民間人、③強制収容所の収容者たち、である。この人たちが強制労働をさせられた現場は、私企業、ナチス親衛隊所有企業、自治体、教会、農家、一般家庭など、社会の全分野に渡っており、1944年夏の段階で780万人、終戦までで述べ1000万人が働かされた。

 強制労働の目的は、男労働力の補充、企業の軍需生産維持、工場等の地下への移転や地下新工場の建設、企業からみると経費の節約、若さと労働生産性の向上、戦後に備えての資本蓄積。
強制労働者たちは、こうした目的で酷使され、自分たちの味方である連合軍から空爆される危険にさらされながら、ネチスや収容所監視員の残虐な扱いに苦悩し、さらには恒常的な寒さと飢えに襲われていた。ダイムラーベンツやフォルクスワーゲンなどで働かされていた。
保険業界もナチスと絡み、こうして強制労働の現場は「秩序正しく清潔」に運営された。業界は、守るべきは人の生命と安全ではなく、強制労働とその先に待ち構えているガス室での殺戮体制、すなわり生死の境目の手前で行われる強制労働と向こう側へ抹殺する制度を「安全に保障」した。
企業だけでなく、一般家庭、自治体、教会、小規模農業でも強制労働者の労働力に依存した。多くの場合、賃金は支払われていない。

20章 強制労働の補償

 歴史の真相の解明に向けた努力がとりわけ1990年代以来世界的レベルで続いている。国連はルワンダ、ユーゴスラビアでの大量虐殺をめぐり、臨時の戦犯法廷を開き、真相の解明と加害者の処罰を目指している。南アの「真実和解委員会」には、アパルトヘイト政策のもとで行われた人権侵害や政治的弾圧の解明に、加害者と被害者双方が参加した。2000年8月国連人権促進保護小委員会は、「従軍慰安婦」問題で、日本政府が損害賠償などの法的責任を果たしていない。とする報告書を全会一致で歓迎する決議をした。ドイツは、戦後補償問題では日本よりも確かに進んだ側面を持っている。ただし、ドイツ統一前の西ドイツは、前章で取り上げた強制労働の問題では、補償の対象者を主として西側のみに限っていた。その原因は、第1に東西の冷戦構造である。西側陣営に属する西ドイツは、量的にも質的にも最も被害が深刻で、大きかった東側の被害者を放置した。

 第2は、強制労働の実態と歴史の真相の解明が進んでいなかった点が挙げられる。ドイツ企業は、強制労働者はナチスから強いられて雇用した、と主張していた。例えば、「政府により、不足する労働力を強制労働により補うよう強いられた」(シーメンス社)。外国人は確かに強制労働させられたが、企業もそれを強制させられた。従って強制労働者も企業も共に被害者なのだという。今日、こうした「企業も強制させられた」とする説を支持する証拠は全く存在しない。逆に、企業はナチス詣ですることで強制労働者の投入を積極的に要請していた真相が次々と明るみに出て来た。真相の解明を可能にした契機は以下の3点である。①ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一されるにつれて、資料館の公開が進んだ。②市民、労組、強制労働の生存者達、学生運動経験者、教会、緑の党、社民党、民主社会主義党などの粘り強い運動は、子会社やその関連産業に資料の開示を約束させ、親会社はナチス時代の過去を隠せなくなってきた。又、この運動は、企業に自らの企業史を書かせた。企業は自分の「暗い過去」と向き合わざるを得なくなった。③アメリカで起こされたドイツ企業に対する集団訴訟。1997年、在米200人の元被害者は、アリアンツ社以下7保険会社を相手取りニューヨーク地裁に訴え、補償請求の声を挙げた。イメージダウンと市場喪失を恐れるドイツ企業は、「被害者」を装う事はできなくなった。

 自らの過去に目を向けざるを得なくなってきた企業から明るみに出て来た事実は多い。中でも、強制労働者の取り扱いは、各企業の自由裁量に任されていたことが分かってきた。労働者を飢餓と寒さのなかで、生死の境目で酷使し、ガス室に送った責任はナチスだけにあるのではなかった。少数の例外を除いて、多くの工場では企業が、食料、労働環境の改善に関心をまったく払わなかった。ナチスの人種理論は、特に東欧スラブ民族を最劣等民族と位置付ける。体制批判者への弾圧、殺戮、ユダヤ人へのポグロム(ホロコースト)が日常化しているなかで、企業幹部や工場責任者に、とりわけ東欧出身の強制労働者の人権に配慮する感覚が皆無だった。こうして放置されてきた東欧出身の強制労働者への補償問題が、真相の解明という世界史的な潮流のなかで浮上していきた。しかし、キリスト教民主同盟・社会同盟と自由民主党との連立からなる中道右派のコール政権は、補償問題に聴く耳をもたなかった。1998年に成立した社民党と90年連合・緑の党の左派新連立政権の努力で、東側の強制労働者を対象にした補償基金『記憶・責任・未来』が設立され、6300の企業と政府がそれぞれ50億マルクずつ拠出した。すでに補償給付が開始され、2002年7月段階で86万7千人が第1回目の補償金を得た。ポーランド人約38万人、ウクライナ人約19万人となっている。被害者の主張は、①未払い賃金の支払い、②被害実感と苦悩の認知、③謝罪と補償、である。

 基金の特徴は以下の点にある。①基金は苦しみの緩和のための、「ささやかな寄与」であり、謝罪や補償になっていない。虐待の法的責任も認めていない点で、極めて問題ンが多い。②ドイツの全企業約20万社が拠出を呼びかけられた。その理由は、強制労働がドイツの全社会を潤し、それにより戦後のドイツ社会が支えられている、という認識に基づくからである。③企業側の最大の恐れは、米国などでの市場喪失、企業の提携や買収が出来なくなることであった。そのため、基金は、幣国で提訴されていたドイツ企業を相手取った集団訴訟をすべて却下し、再提訴も不可能にする条項を含んでいた。こうして今後、新たな資料が出てきて、真相の解明がさらに進んだとしても、裁判の道は一切閉ざされた。④基金には、その後自主的に、自治体、日刊紙「TAZ」、作家ギュンター・グラスらが拠出し、参加者は当初の政府、企業を超えて広がっている。


21章 戦後賠償とギリシャでの残虐行為

 1997年10月、ギリシャの地方裁判所はドイツ政府に対し5400万マルクの補償金をギリシャの遺族に支払うよう命じた。ドイツ政府は、外国の裁判所から始めて補償金支払いを求める判決を受けた。

 ドイツ政府は、なぜ補償の支払いを要求されたのか。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはギリシャを占領した。ドイツ軍により処刑されたり、強制収容所送りとなったギリシャ市民は約13万人、うち6万5000人はユダヤ人であった。例えばテッサロニキではユダヤ人社会は全滅し、欧州でも最重要のシナゴーグ(ユダヤ教会)の一つが破壊された。64の地域で市民に対する大量殺戮がなされ、5万6000人が射殺され、占領政策により数十万人が飢餓状態に陥り、壊された市町村数は1000にのぼった。社会インフラの半分が壊滅した。こうした行為には、ナチス親衛隊よりも、正規軍であるドイツ国防軍が積極的に関わった。1947年、パリの戦勝国会議で、ギリシャ政府は賠償額を70億ドル以上と算定している。

 大量殺戮と都市の破壊以外に、強制貸付の問題がある。ドイツ軍は、占領中、ギリシャの銀行に35億ドル貸し出すよう命じた。ドイツ占領軍は当時文章にて返却を約束したが、今日に至っても約束は果たされていない。1966年、ギリシャ政府は、これを「強制国債」問題として取り上げ、ドイツ政府は未決着であることを告げている。以来、ギリシャ政府は戦後史のなかで繰り返し賠償を請求しているが、ドイツ政府は応じていない。

 1953年3月当時の西ドイツ政府は、西側諸国で、第二次世界大戦中ドイツと交戦状態にあった国々と「ロンドン債務協定」を締結した。その核心は、ドイツの賠償支払いは、まず東西ドイツが統一され、その後に各国と平和条約を結ぶまで延期されるという内容であった。東西ドイツの統一とは、この時代は訪れることのない夢物語であった。夢物語を利用し、各国に賠償の<受取りの延期>を「、しかし実態は、<受取りの断念>をさせた。交渉委員はヘルマン・アブスであった。1950年代以降の「ドイツ経済の奇跡」は、この支払の先延ばしにも一因がある。

 ナチス時代、彼を頭取とするドレスデン銀行は、親衛隊へ資金を提供し、また収容所が大量殺戮の国際裁判で、米側検察官から「真の戦争犯罪者」の一人に名を挙げられている。アブスはこれを反省しないばかりか、西側被害国に賠償の受取りを断念させることに成功した。被害者たちは、ドイツ国家が被害国に賠償(国家賠償)をしないならば、せめて被害者個人にドイツ政府が補償(個人補償)をするよう運動を起こした。この結果、ギリシャには1960年3月総額で1億1500万マルクが支払われ、13万人が、一人当たりわずか900マルク弱の個人補償を受けた。ところが、1990年、アブスが口実とした夢物語は突如実現した。両ドイツが統一され、統一された両ドイツは、米英仏ソと平和条約を結んだ(両ドイツと4か国で締結されたので「2+4条約」という)。アブスの約束通り、賠償の支払いが始まるはずであった。しかし、コール政権はこれを拒否し続けた。

 そこでギリシャの遺族や被害者は、ドイツ政府に対し強制国債の払戻しやホロコースト(大量虐殺)への個人補償を求めて、ギリシャ全土で訴訟を開始した。これに対し、ドイツ政府は、ギリシャの裁判所には、国境を越えてドイツ政府の問題を裁く権限はないと主張してきた。しかし、冒頭で触れたようにレヴァディア地裁は、補償金の支払いを命じた。ドイツ政府は、これを不服としてギリシャ最高裁に上告をした。しかし、2000年5月、最高裁は地裁判決を支持、理由の一つは、行われた殺戮は、軍隊の戦闘中になされた兵士同士の殺戮ではなく、ドイツ軍による市民に対する大量殺戮であり、これは国境を越えて裁くことができる、とするものであった。ここにみられるのは、今後国際社会は、国の内外に関係なく、また戦時中であろうと戦前であろうと一般の市民に対する組織的、大規模な殺戮は<人道に対する罪>として、国境を越えて、許さないとする姿勢である。

 ドイツ政府が賠償支払いを拒否する姿勢は続いている。そこで遺族や被害者たち200人は、ギリシャに存在するドイツの外国資産を差し押さえ、その資産を競売にかけ、補償金や慰謝料を捻出しようとした。差押えの対象となった3施設のうち一つが、アテネのドイツ文化センター(ゲーテ・インスティテュート)である。差押えられていた施設の競売は2001年9月に予定されていた。しかし、アテネ上級裁判所は競売の数日前に「ギリシャ司法省の同意が必要」という判断を下した。司法省は、同意をしなかったために、競売は今のところなされていない。


24章 ドイツの平和教育

学習指導要領の姿勢
 日本と同様に特別な過去を歩んだドイツでは、歴史との対話が平和を考えるために欠かせない要素となっている。このため学校での歴史教育は平和教育の一環として位置づけられ、近現代史学習、とりわけ第3帝国時代(ナチス時代)の学習にはかなり集中的な取り組みがなされている。
 
 学習指導要領の面から見てみると、地方自治主義の徹底するドイツでは、学習指導要領も州ごとに編成されるが、それぞれ若干の違いがみられるにしろ、歴史に対する基本的な姿勢は共通する。例えばハンブルグ市の学習指導要領では、歴史を学ぶ目的として民主主義的思考の獲得を挙げている。その際以下の2点に重点が置かれている。第1に過去のドイツ人の価値基準や行動を分析することで、民主主義の成立条件を探ることである。とりわけ「戦争」を学ぶことの意味は、「残虐で非人道的な体制とともに歩んだ歴史的体験から、民主的な人権国家が不可欠であるとの認識を獲得し、この立場からドイツ連邦共和国における民主主義の維持発展に取組む」ためとされている。加害者としての立場を明確にしつつ、戦争の歴史から平和について学び取ろうという姿勢がうかがえる。第二に歴史学習の方法として、過去と現在との連続性に着目し、歴史を追体験できるような授業の進め方を求めている。このため歴史への大局的なアプローチに限らず、日常史の採用が奨励されている。また強制収容所跡といった歴史の現場を訪ね、現実と出会う体験も重視されている。

教育現場からーハンブルグの事例ー
 ドイツの学校教育現場の歴史教育は、日本のように「日本史」と「世界史」にわけて何度も繰り返す形の学習ではなく、ドイツ史のみ、あるいは広く見てもヨーロッパ史にとどめた内容の通史を最低学年から最高学年までかけて1度だけ学ぶ。そのぶん一つひとつの事項に対する取り組みは豊富で密度の濃いものとなる。第3帝国時代にさしかかるのは、日本の中学3年生にあたる9年生の学年末頃であるが、実際には10年生の初めに持ち越してじっくりと時間と労力をかけて取り組むケースが多い。

 ハンブルグ市のあるギムナジウムで実際に行われた歴史授業を紹介すると、筆者が見た10年生のクラスはすでに4年間にわたり同一教師が担任するため、前学年から少しずつ段階を踏んで第3帝国学習のための下準備が行われてきた。歴史学習の枠外でも、例えば国語の授業で戦争を題材として教材を取り上げ、戦争について話し合った。また合宿などで、戦争に限らずあらゆる形態の暴力について話し合う機会を設け、戦争の根本である「暴力」の概念の理解に努めてきた。さらにそこまでで得た知識をもとに、生徒各自が戦争に関するテーマで小論文を仕上げた。以上の準備段階をへて、実際の歴史授業で第3帝国が取り上げられた。授業は講義形式ではなく、あらかじめ与えられたテーマについて下準備してきた生徒が議論する形で進められた。授業での教師の役割は、生徒から出された意見に関連を与え、議論にある程度の筋道をつけることに終始していた。特徴的だったのは、教師から生徒に対して出される質問のほとんどが、「なぜ」「どのように」を問うものであったことだ。生徒は、知識の蓄積だけでなく、自分で分析し、自分のことばで説明できるようにならなくてはならなかった。指導要領にある第2の重点項目である過去と現在の連続性に関しては、当時の状況に自分をおいて考えることが要求された。このことによって、生徒はプロパガンダに踊らされずに真実を見つめることの難しさと、自分のなかにも「長いものに巻かれる」要素があることを認識させられるのである。また、このギムナジウムではハンブルグ郊外にあるノイエンガンメ強制収容所跡のほか、ハンブルグ歴史博物館を見学し、加害、被害、抵抗運動など、あらゆる角度から展示に関するレポートをまとめるといった試みも行っている。

 このような様々な取り組みを通じて、歴史の学習という枠を超えた平和教育としての歴史教育は、学校現場でかなりの密度とレベルの高さをもって達成されている。しかし、紹介例は生徒の大半が大学入学資格を取得する高等教育学校の一例にすぎない。密度の濃い平和教育はすべての学校にで行われるわけではなく、高学歴層と低学歴層の間には明らかな歴史観のギャップがあり、学歴が低い層ほどホロコーストを相対化したり、ナチズムを肯定しようとしたりする傾向が指摘されている。今後の平和教育の課題は、このギャップをいかにして埋めていくかという点にかかっている。

以上 抜粋ですが、戦後のドイツの状況がよく分かりました。
その後、これらがどう転換していっているのかは、別な本で確認していきたいと思います。

2020年にならんとしている今の日本と韓国でも、似たような話がまだ続いている事に驚くとともに、歴史的な事実としっかり向き合うという姿勢(教育含む)は大事ということを改めて思いました。

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