2019年8月3日土曜日

【本】仏教・神道・儒教 集中講座 井沢元彦 徳間書店

日韓問題に関係する儒教の教えとはどういう物なのか知りたくて、この本を読んでみました。すると、仏教も神道についても、全然 分かっていなかった事を知り、愕然。この年になってそうだったのか、、と。


私にとってポイントと思えた点を書き出してみます。


『仏教』
・仏教は一神教ではなく自由な考え方をする。その為に同じ宗教でありながら、その中に正反対の考え方をそのまま包含してしまっている。これは仏教の大きな特徴。

・お釈迦様は生きり事は苦しみ(生、老、病、死)から逃れられないと考えた。
 四苦八苦は上記4つの苦しみに、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦の4つが加わって八苦となった。

人間が苦しむのは執着するからだと気が付いた。執着が苦しみを生むのは、この世のことはすべて無常だから(諸行無常)。あらゆるものは必ず滅びていくが、それをまるで永遠に存在するかのように錯覚して守ろうとしたり続けようとしたり執着するから苦しみが生まれる。だから、全ては無常である事を認識する事が大切でそれを「悟り」と呼んだ。

無常を悟り煩悩の炎を消した状態を涅槃という。(これが転じて死んで煩悩に執着しなくなる事も涅槃という様になった)

もう一つの考え方が「輪廻転生」。生命は永遠。もとは古代インド哲学。六道という形に整理されて天道(天上界)、人道(人間界)、修羅道、畜生道、餓鬼道、地極道という順に存在する6つの世界で転生する。天上界に行ったとしても生きている事になるので苦しみから逃れる事は出来ない。その輪から抜け出すのが「解脱」。

悟りを開き人間を超えた優れた者になれば、輪廻の輪から解脱できると考えた。悟りを開いた人間を「如来」あるいは「仏陀」と呼ぶ。

・お釈迦様の仏教は基本的に個人の救済を目的にしたもので、個人が悟りを開かなければどうにもなりません。ですから、どうしても出家して修行をする主義となります。

それに対して、沢山の人間を悟りの方向に連れて行く事ができる大きな乗り物の様な仏教を目指すという「大乗仏教」という考えが後に出て来た。これは出家しなくても良いというもの。 そして、今までの仏教を侮蔑的に「小乗仏教」と呼んだ。
(これは、キリスト教徒がイエスを信奉するあまり、同じ聖書でもイエスの言葉が乗っているのを「新約」と言いて、それ以前の神の言葉が載っている聖書を「旧約」と言ってバカにするのと同じ発想)

・それまではお釈迦様は尊敬すべき先輩という事でしたが、大乗仏教では「お釈迦様を拝め」となった。それは、お釈迦様の超人的な力にすがって助けてもらおうという思想だから。(でもお釈迦さまはそんな事は言っていない、、)

大乗仏教は、それは方便であると言って、色々仏典を創作していった。そういう仏典の頂点にあるのが「法華経」(みょうほうれんげきょう)。

大乗仏教では釈迦以外にも如来が居る事にした。その中で、阿弥陀如来は「多くの人を救える事」という誓いをして如来になったとお経に書いてある。救い方は、「我を十念すれば」私はあなたたちを私の支配する極楽浄土(輪廻転生から外れた世界)に生まれ変わらせてあげる。とのこと。 浄土は全ての仏様にある(仏国土)が、「極楽」と言った場合は阿弥陀さまの浄土を指します。

阿弥陀さまを信仰すればまずは極楽浄土に生まれ変わる。これを「往生」と言う。そして往生してから、仏国土で修行して、最終的に仏陀になる。これが「成仏」。凡人には自力修行での悟りは難しいので、お釈迦様の力、つまり他力をに頼って往生して、そこで修行して仏になるという二段階のプロセスを経て悟りを開くのです。(他力本願)

阿弥陀信仰は日本に浄土教として入ってきた。「南無阿弥陀仏。」
最澄の天台宗はお経の総合大学。比叡山延暦寺。
空海の真言宗はお経になっていない口伝=密教を教えるという宗派。高野山金剛峯寺。

やっぱり他力本願は違う。自分で修行して悟りを開くべきとの考えが禅宗を生んだ。曹洞宗。
一方、親鸞はお経を読まんでも「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで良いとした。でも、これは法華経以外は全部偽物だという意味にもなる。太鼓をたたきながら大声で唱える。創価学会。

鎌倉時代の仏教大衆化に伴い、日本独自の大きな変化「本時垂じゃく説」が生まれる。日本の神道の神と仏様は実は同じものなのだ、、という説。これにより神仏混淆の状態になり、大き神社には必ず寺があり、神官とお坊さんでそれぞれユニフォームは違っていても、実は同じ人が管理していたのです。

この神仏混淆状態が崩れるのは明治になってから。欧米の一神教が迫って来るのに対抗する為に、無理やり神道を切り離して「国家神道」を作り、多くの仏教寺院を焼き払う廃仏毀釈を行いました。

寺も大きな武装兵力を持ち利権をむさぼるのが当たり前の時代が続いていたが、信長が比叡山焼き討ちで武装解除し、以降 寺は丸腰になった。

徳川家康は檀家制度を導入して、寺を役所の一部として機能するように政策に組み込んだ。これにより300年。仏教は惰眠をむさぼった。そのため、葬式の時にしか一般の人と接点がないようなものに堕落してしまっている。
日本の仏教は危機的状態が続いている。


『神道』
神道は分かりにくい。それは、聖典が無いという事と、「本来の神道」と明治政府によって無理やり作られた「国家神道」という二つの別物があるから。一般国民はこの違いを殆ど理解していない。

神道は基本的に多神教なのだが、「国家神道」は欧米に対抗する為に日本人がある意味で一神教的に強化させた神道。無理やり一神教的な強化をしたので、それまでにない神道になってしまった。

本体の神道は、全ての宗教の中で排他性、独善性が最も少ない宗教です。でも国家神道は一神教の影響を受けているのでどうしても排他的、独善的になる傾向がみられます。

神道は卓越しているものを祭る。良い神も悪い神も。悪い神も丁寧にお祭りすれば機嫌を直して善なる神に転化するというのが神道。徹底的な性善説とい言われる事もある。
菅原道真は理不尽な扱いをされて恨みの神となったが、それを祭ったのが天満宮。

現生肯定の神道、現世否定の仏教(諸行無常)。
聖徳太子の十七条憲法では第1条が「和」になっている。「和」は仏教にも儒教にもなく。古来神道の考え方。
そして、「穢れ」 とそれを取り除く「禊」と「祓い」。

国家神道は、一神教に対抗する為に天皇を押し立てて行こうという事にした。そこで、日本中の神社をすべて国家の統制下に置き、国家の機関として、その神を祭る地位のトップに天皇を据える事にしたのです。これは明らかにローマ法王を意識していると思いますが、天皇はこの世の神 現人神であって、すべての日本人はそれを信仰しなければならないとしました。戦前の軍隊は、天皇を守る事が日本の文化を守る事であり、国を守る事であり、国民を守る事だったのです。天皇と国民は一体であるというかたちをもって、西洋の原理に対抗しようとしたわけです。


『儒教』
ルーツは先祖崇拝。
”位牌”というのは儒教の考え方。仏教ではない。(仏教は輪廻転生なので位牌は使わない。)
孔子が先祖崇拝というものを一つの体系にまとめたもの。関連して、儒教には、どんな場合でも子孫を絶やしてはいけない、という思想がある。(先祖をお祭りする人がいなくなってしまうから)もし養子を取るなら男系からとらなければいけない。

もう一つの特色は「得」というものを重んじる事。個人が得をもって身を修める。次にそのことを拡大し、個人が所属する家族を整える、家庭が整えばその集合体である国が治まり、天下が平たくおさまる。という考え方。

儒教で最も重要な第1義は「考」(子供の親に対する忠節)。
民間の物語では、親の為に自分の子を殺すのは正しいという事としている。それが「考」。そして、「和」という考え方は無い。あるのは、
「義」:臣下の祝に対する忠節。主君が道徳に背く行為をしていたら、いさめなければならない。
「悌」:弟の兄に対する忠節


儒教では、賊というのは、どこまで行っても賊なのです。死んでも埋葬してはいけない。先祖崇拝なので死んで魂になっても個性はかわりません。その為、罪人として死んだ人間は、未来永劫「罪人」なのです。


抜粋は以上。

仏教に関してはかなり細かい説明がある本ですが、儒教に関しては自分の意見を沢山書いてある本という印象でした。

もう少し、他の本等で勉強が必要そうです。

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